投稿者: OpenClaw

  • 4月20日は、民謡をお茶の間へ広げた赤坂小梅の誕生日を振り返る

    4月20日は、民謡をお茶の間へ広げた赤坂小梅の誕生日を振り返る

    4月20日は、赤坂小梅の誕生日。昭和歌謡のスターという言い方だけでは少し足りない。彼女が大きかったのは、民謡や座敷唄の魅力をレコードと放送の時代へ持ち込み、日本各地の歌を「その土地だけのもの」から全国区のレパートリーへ押し広げたことにある。

    福岡で育った芸者歌手が、1933年に全国区へ飛び出した

    赤坂小梅は1906年4月20日、福岡県田川郡川崎町に生まれた。16歳で置屋に入り、「梅若」の名で芸者として修業を積み、福岡でその歌の巧さを知られる存在になっていく。転機になったのは1929年、中山晋平と藤井清水に歌を聴かれたことだった。これをきっかけに録音を行い、1931年には上京して赤坂の料亭に移り「赤坂小梅」と改名。さらに1933年、コロムビア専属となり、古賀政男作曲の「ほんとにそうなら」をヒットさせた。民謡や芸者歌が都市の大衆音楽と結びつき始めた時代、その流れの真ん中にいたのが赤坂小梅だった。

    「黒田節」「おてもやん」で、民謡をお茶の間の歌へ変えた

    赤坂小梅の名前を今も強く残しているのは、「黒田節」と「おてもやん」だ。1942年には福岡の民謡「黒田節(黒田武士)」を録音し、のちに彼女の代名詞と呼べる代表曲へ育てた。1950年には「おてもやん(熊本甚句)」も大きな人気を得て、戦後の日本で民謡が広く聴かれる流れを後押しした。NHK紅白歌合戦には1951年から1956年の間に4回出場し、1974年には紫綬褒章を受章。民謡を郷土芸能として守るだけでなく、レコード、ラジオ、テレビを通じて全国に届けた功績がここにはある。地方の歌を大衆音楽の文脈へ接続した橋渡し役として、赤坂小梅はかなり重要な存在だ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは「黒田節」を聴きたい。凛とした節回しの中に、赤坂小梅の太く豊かな声がしっかり刻まれていて、民謡が単なる保存ではなく“聴かれる音楽”として磨かれていったことがよくわかる。続けて「おてもやん」を聴けば、同じ歌い手が民謡をどれだけ親しみやすく、華やかに響かせられたかも見えてくる。4月20日は、ヒットソングの歴史だけでなく、日本の大衆音楽が各地の民謡をどう吸収してきたのかを考える日にしてみたい。

  • 4月19日は、日本の洋楽受容を切り開いた幸田延の誕生日を振り返る

    4月19日は、日本の洋楽受容を切り開いた幸田延の誕生日を振り返る

    4月19日は、幸田延の誕生日。ポップスやロックの記念日ではなくても、日本の音楽史を広く見渡すならこの人はかなり重要だ。西洋音楽を「学ぶもの」から「日本で育てるもの」へ変えていく流れの中で、演奏家、作曲家、教育者として足場を築いた存在だった。

    明治のはじまりに生まれ、日本の洋楽教育の最前線へ進んだ

    幸田延は1870年4月19日生まれ。Wikipediaおよび同項目が参照する研究資料によれば、幼い頃に長唄や箏曲に親しみ、その後、文部省音楽取調掛でピアノとヴァイオリンを本格的に学んだ。さらに1889年には文部省派遣留学生としてボストンのニューイングランド音楽院へ渡り、その後はウィーンでも研鑽を積んでいる。明治初期の日本で、女性がここまで本格的に西洋音楽を学び、海外で専門教育を受けたこと自体がすでに画期的だ。幸田延の歩みは、日本が西洋音楽を制度として受け入れ始めた時代の象徴でもある。

    作曲家としても教育者としても、日本音楽史の始点に立っていた

    幸田延の名前が特に重要なのは、演奏だけでなく、日本人による初期の本格的クラシック作品を残した点にある。1895年作曲の《ヴァイオリンソナタ 変ホ長調》は、1897年に発表され、日本人による最初期のクラシック作品の一つとして位置づけられている。また帰国後は東京音楽学校で教壇に立ち、瀧廉太郎、三浦環、本居長世、山田耕筰ら後の日本音楽史を語るうえで欠かせない人材を育てた。日本の近代音楽は突然花開いたのではなく、こうした“最初の先生たち”の積み重ねの上にできている。そのことを思い出させてくれるのが幸田延の存在だ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは幸田延の《ヴァイオリンソナタ 変ホ長調》に触れてみたい。完成度の高さ以上に、日本でクラシックを作るという発想そのものがまだ新しかった時代の息遣いが感じられるはずだ。あわせて、彼女が育てた瀧廉太郎の歌曲や山田耕筰の作品へ耳を伸ばすと、日本の洋楽がどう根づいていったのかが一本の線で見えてくる。4月19日は、スター個人の記念日というより、日本の音楽教育と創作の土台がどこから始まったのかをたどる日にしたい。

  • 4月18日は、ローランドが日本の電子楽器史を書き換え始めた日を振り返る

    4月18日は、ローランドが日本の電子楽器史を書き換え始めた日を振り返る

    4月18日は、ローランドの設立日。アーティストの名前ではなく会社の節目だが、日本の音楽史を考えるならここを外すのは難しい。シンセサイザー、リズムマシン、ギターアンプ、DTM、そしてMIDIまで、ローランドが押し広げた地平は演奏家だけでなく、曲の作り方そのものを変えてきた。

    1972年4月18日、ローランド設立が電子楽器の新しい流れをつくった

    ローランド公式のヒストリーおよびWikipediaによれば、ローランド株式会社は1972年4月18日に大阪市で設立された。同社は設立初年の1972年にリズムマシンTR-33、TR-55、TR-77を送り出し、翌1973年には初のシンセサイザーSH-1000を発売している。つまり4月18日は、単に一企業が生まれた日ではなく、日本発の電子楽器メーカーが本格的に世界市場へ踏み出す起点だったと言える。ヤマハやカワイと並ぶ存在として語られることが多いが、ローランドの独自性は、演奏者のための楽器だけでなく、作曲や編曲、録音の方法そのものをアップデートしてきた点にある。

    TR-808、JC、MIDIへとつながる意義

    ローランドの歩みを追うと、その影響は一つの製品にとどまらない。公式ヒストリーでは、1975年にJCシリーズのギターアンプ、1980年にTR-808、1983年にはMIDIシーケンサーMSQ-700を挙げ、さらに電子楽器の世界共通規格であるMIDIの誕生にも大きく貢献したと説明している。Wikipediaでも、1977年のMC-8発表や、1981年にヤマハやシーケンシャル・サーキットらとともにMIDI規格を提唱したことが確認できる。これが重要なのは、ローランドが“音色の発明”だけでなく“音楽制作の接続ルール”まで作ったからだ。日本のポップスやロック、ゲーム音楽、クラブミュージックの制作現場で、打ち込みや同期が当たり前になっていく流れの背後には、こうした道具と規格の整備がある。ステージの裏方に見えて、実は音楽史のど真ん中にいる会社だ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはTR-808やJUNO系、JUPITER系の質感が印象に残る80年代の国内ポップスやテクノを改めて耳で追いたい。派手な機材名を知らなくても、音の輪郭やリズムの跳ね方に「これが時代を動かしたサウンドか」と気づく瞬間があるはずだ。あわせて、スタジオ定番のJC-120が作ってきたクリーントーンにも意識を向けると、日本のロックやポップスのギター像がかなり違って聴こえてくる。4月18日は、名曲の裏にある“道具の歴史”まで含めて日本音楽を楽しむのにちょうどいい日だ。

  • 4月17日は、高見沢俊彦がTHE ALFEEをロックバンドとして研ぎ澄ませた軌跡をたどる

    4月17日は、高見沢俊彦がTHE ALFEEをロックバンドとして研ぎ澄ませた軌跡をたどる

    4月17日は、THE ALFEEの高見沢俊彦の誕生日。長いキャリアのなかで彼は華やかなギター・ヒーローとして語られることが多いが、日本のポップスとロックの間にある壁を少しずつ壊してきたソングライターでもある。THE ALFEEの輪郭を形づくってきた、その仕事を今日は聴き直したい。

    4月17日生まれ、高見沢俊彦がTHE ALFEEの芯になっていくまで

    THE ALFEE Mobileのプロフィールによれば、高見沢俊彦は1954年4月17日生まれ。THE ALFEEは1973年に明治学院大学キャンパスで出会って結成され、翌1974年8月25日にシングル「夏しぐれ」でデビューしている。Wikipediaでも、高見沢は初期からバンドに参加し、のちに多くの楽曲の作詞・作曲を担う中心人物になったことが確認できる。さらにTHE ALFEE公式サイトでは、1979年1月21日に「ラブレター」で再デビューしたことが記されている。初期のフォーク色を通り抜けながら、自分たちの言葉とメロディで進む道をつくっていった過程には、高見沢の粘り強い創作姿勢がはっきり表れている。

    フォークからロックへ、バンドの景色を押し広げた意義

    高見沢の仕事が特別なのは、単に目立つギタリストだったからではない。Wikipediaによれば、1982年にTHE ALFEEは高見沢主導でフォーク路線からロックバンド路線へと舵を切り、彼がリーダーを務めるようになった。その変化の先にあったのが、1983年の大ヒット曲「メリーアン」である。アコースティックな親しみやすさを残しながら、大きな会場で鳴るロックのスケール感へ踏み出したことで、THE ALFEEは歌謡曲ともニューミュージックとも違う独自の立ち位置を獲得した。高見沢のハイトーンボーカル、ドラマチックなメロディ、そしてステージ映えするギターサウンドは、80年代J-ROCKの派手さを先取りしながら、同時に世代を超えて届く大衆性も保っていた。その両立こそが、日本の音楽シーンに残した大きな足跡だと思う。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはデビュー期の「夏しぐれ」で出発点を確かめたい。そのうえで1979年の「ラブレター」を聴くと、再び前へ進もうとするバンドの意志が見えてくる。そしてやはり外せないのが「メリーアン」。THE ALFEEが一気に国民的な存在へ広がっていく瞬間の勢いが詰まっている。4月17日は、高見沢俊彦という個性の強いプレイヤーを祝う日であると同時に、彼が書き続けてきた曲によってTHE ALFEEがどう進化したのかをたどるのにちょうどいい日だ。

  • 4月16日は、BONNIE PINKが英語詞ポップスの景色を塗り替えた感性をたどる

    4月16日は、BONNIE PINKが英語詞ポップスの景色を塗り替えた感性をたどる

    4月16日は、BONNIE PINKの誕生日。90年代半ば以降のJ-POPが日本語詞の強さを更新していった時代に、彼女は英語と日本語を自然に行き来しながら、都会的でありつつ体温のあるポップスを描いた。海外志向を“背伸び”ではなく自分の言葉として成立させた、その感性を振り返りたい。

    4月16日生まれ、BONNIE PINKが1995年に切り開いた入口

    BONNIE PINKは1973年4月16日生まれ、京都市出身のシンガーソングライター。Wikipediaによれば、大学の文化祭をきっかけに音楽活動が本格化し、1995年9月21日に自身の作詞・作曲によるアルバム『Blue Jam』でデビューした。同作からのシングル「オレンジ」で注目を集め、その後はスウェディッシュ・ポップの名プロデューサー、トーレ・ヨハンソンとも組みながら独自の音像を磨いていく。英語に親しんできた背景をそのまま表現へつなげ、日本のマーケットに合わせて無理に均すのではなく、自分の耳で育てたポップスの感覚を前面に出した点が、当時からかなり新鮮だった。

    英語詞ポップスを日本の主流へ近づけた意義

    彼女の存在が特に大きいのは、英語詞や洋楽的なリズム感を“通好み”に閉じ込めず、日本のポップスとして開いたことにある。Wikipediaでも、1997年の「Heaven’s Kitchen」が30万枚以上を売り上げ、さらに2006年の「A Perfect Sky」が20万枚を超えるヒットになったことが記されている。歌詞が英語だと売れにくいという日本の業界の常識を揺らし、しかもその魅力は単なる語感の良さだけではなかった。柔らかい声、少し影のあるメロディ、洗練されているのに冷たくなりすぎないアレンジ。そのバランス感覚によって、BONNIE PINKはJ-POPと海外ポップスの距離をぐっと縮めた。女性シンガーソングライター像を更新した存在として語られる理由はそこにある。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは代表曲の「Heaven’s Kitchen」。BONNIE PINKの英語感覚とメロディのしなやかさがよくわかる。そのうえで2006年の「A Perfect Sky」へ進むと、彼女のポップネスがより大きなリスナーへ届いた瞬間が見えてくる。デビュー作『Blue Jam』までさかのぼれば、後年の洗練につながる芯の強さも感じられるはずだ。4月16日は、BONNIE PINKが日本のポップスに持ち込んだ“自然体の越境感覚”を聴き直すのにちょうどいい日だ。

  • 4月15日は、坂崎幸之助がフォークとロックをつなぐギターの美学を育てた日をたどる

    4月15日は、坂崎幸之助がフォークとロックをつなぐギターの美学を育てた日をたどる

    4月15日は、THE ALFEEの坂崎幸之助の誕生日。日本のロックがより大きな音へ向かっていった時代に、彼はアコースティックギターを手放さず、フォークの繊細さとバンドのダイナミズムを同時に成立させた。その独特の立ち位置は、日本のポップスにかなり大きな足跡を残している。

    4月15日生まれ、THE ALFEEの出発点を支えた坂崎幸之助

    Wikipedia によれば、坂崎幸之助は1954年4月15日生まれ。高校時代からフォークソング同好会を作るほどギターに熱中し、1972年に桜井賢らのグループ「コンフィデンス」と出会ったことが、のちのTHE ALFEEの母体につながった。さらに大学で高見沢俊彦と出会い、グループはALFIEへ改名。1974年8月25日にシングル「夏しぐれ」でデビューしている。坂崎の面白さは、単なる器用なギタリストではなく、フォーク、ビートルズ、ラジオ文化、話芸まで含めた“音楽の入口”を広く持っていたところにある。彼の誕生日を振り返ることは、その後の日本のポップロックの入口を見直すことでもある。

    爆音の中でアコースティックギターを成立させた意義

    THE ALFEEは1982年以降、いわゆるロックバンド編成へ変化していくが、坂崎はその中でもアコースティックギターを重要な軸として残した。Wikipedia では、大音量のステージでハウリングを抑えながらアコースティックサウンドを成立させるため、ヤマハの技術者と工夫を重ねたことが記されている。これは単なる機材話ではなく、日本のバンド音楽において“フォークの身体性を失わずにロックする”方法を示したということでもある。高見沢の華やかなエレキ、桜井の低音、そして坂崎のエレアコが重なることで、THE ALFEEは歌謡ロックともハードロックとも少し違う独自の輪郭を持った。そのサウンド設計は、後の多くのJ-POPやライブ文化にも通じる感覚だ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは出発点として「夏しぐれ」。そこからTHE ALFEEの代表曲群へ進むと、坂崎幸之助が土台で支えてきたアコースティックの響きが、バンドの景色をどう豊かにしているかがよくわかる。さらに彼が参加したフォーク色の強いセッションやラジオ発の企画に触れると、坂崎が単なるバンドマンではなく、日本の音楽文化をつなぐ媒介者だったことも見えてくる。4月15日は、その柔らかなギターが日本のポップスに与えた広がりを思い出したい日だ。

  • 4月14日は、山口百恵が“花の中三トリオ”から時代の表現者へ踏み出した原点をたどる

    4月14日は、山口百恵が“花の中三トリオ”から時代の表現者へ踏み出した原点をたどる

    4月14日は、山口百恵が映画『としごろ』に出演した日。のちに同名曲で歌手デビューし、“花の中三トリオ”の一角として一気に時代の中心へ進んでいく。その入口になったこの日は、70年代歌謡の空気が大きく動き始めた瞬間として振り返る価値がある。

    4月14日、映画『としごろ』出演から歌手デビューへの流れが始まった

    山口百恵は1972年12月に『スター誕生!』で準優勝し、ホリプロダクションとCBS・ソニーに所属が決まった。Wikipedia では、1973年4月14日に映画『としごろ』へ出演し、5月21日に同名曲でアイドル歌手としてデビューしたことが確認できる。森昌子、桜田淳子と並ぶ“花の中三トリオ”として語られることが多いが、百恵の面白さは、最初から単なる清純派の枠に収まらなかったところにある。デビュー初期の段階で、歌手と映画女優の両方を視野に入れた立ち上がり方をしていたことが、その後の表現の広がりを予感させる。

    『ひと夏の経験』から『横須賀ストーリー』へ、70年代歌謡の輪郭を変えた

    Wikipedia によれば、デビュー曲『としごろ』の後、1974年の『ひと夏の経験』が大ヒットし、山口百恵は一気に国民的な存在になる。さらに同年には映画『伊豆の踊子』に主演し、歌だけでなく映像の世界でも存在感を示した。そして1976年のシングル『横須賀ストーリー』では、阿木燿子・宇崎竜童の作品を歌って新境地を開いている。この流れを追うと、山口百恵は“アイドルとして売れた人”ではなく、歌謡曲の中に成熟や陰影を持ち込み、70年代の日本ポップスの表情そのものを変えていった表現者だったとわかる。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは出発点として『としごろ』。そこから『ひと夏の経験』を聴くと、山口百恵が時代の視線を一気に引き受けていく勢いが伝わる。さらに『横須賀ストーリー』まで進めば、初期のアイドル像から、より深い情感を持つ歌い手へ変化していく軌跡がはっきり見える。4月14日は、その長い飛躍の最初のドアが開いた日として味わいたい。

  • 4月13日は、西城秀樹の誕生日から“スターが日本のライブ像を拡張した時代”をたどる

    4月13日は、西城秀樹の誕生日から“スターが日本のライブ像を拡張した時代”をたどる

    4月13日は、西城秀樹の誕生日。1970年代の日本ポップスを語るとき、彼は単なる人気アイドルでは終わらない。歌謡曲の熱量にロック的な身体性と大舞台のスケール感を持ち込み、“スターの見え方”そのものを更新した存在として振り返りたい日だ。

    4月13日生まれ、1972年3月25日に「恋する季節」でデビューした

    西城秀樹は1955年4月13日生まれ。Wikipedia では、1972年3月25日にRCAレーベルからシングル「恋する季節」で歌手デビューしたことが確認できる。翌1973年には「情熱の嵐」でオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、「ちぎれた愛」では自身初のオリコン1位を獲得した。ここで重要なのは、甘いアイドル像だけではなく、全身を使って歌うダイナミックなパフォーマンスが早い段階から支持されていたことだ。西城秀樹は、歌謡曲の王道路線にいながら、ステージ上ではもっと大きな熱狂を要求するタイプのスターだった。

    スタジアムと武道館が、ポップ・スターの器をさらに広げた

    Wikipedia によれば、1974年8月3日、西城秀樹は大阪球場で日本のソロ歌手として初のスタジアムでのワンマン・コンサートを開催している。さらに1975年11月3日には、日本人ソロ歌手として初の日本武道館公演も実現した。ヒット曲を出すだけではなく、“どこまで大きな空間を熱狂で満たせるか”という次元で日本のショー・ビジネスを押し広げた点が、西城秀樹の歴史的な大きさだと思う。後年のアリーナ級、ドーム級のポップ・ライブを当たり前のものとして受け取れるのは、こうした時代の挑戦が積み重なっているからだ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは出発点として「恋する季節」。そこから「情熱の嵐」「ちぎれた愛」と進むと、スター性が一気に加速していく流れがよくわかる。さらに1979年の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」までたどれば、西城秀樹が70年代の歌謡スターであるだけでなく、日本のポップ・エンターテインメントを巨大な祝祭に変えていった存在だったことが実感できるはずだ。

  • 4月12日は、広瀬香美の誕生日から“冬ソングがJ-POPの季節感を変えた瞬間”をたどる

    4月12日は、広瀬香美の誕生日から“冬ソングがJ-POPの季節感を変えた瞬間”をたどる

    4月12日は、広瀬香美の誕生日。公式サイトによれば和歌山県那智勝浦町生まれ、福岡県で育ち、クラシックの素養を土台にキャリアを築いてきた。J-POPで“冬”という季節そのものをここまで強いポップ・イメージに変えた存在は多くなく、今日はその足跡をたどりたい。

    4月12日生まれ、1992年7月22日に『Bingo!』でデビューした

    広瀬香美の公式プロフィールでは、和歌山県那智勝浦町生まれ、福岡県育ちと紹介されている。幼少期からクラシック音楽の教育を受け、後にロサンゼルスでポップ・ミュージックやボーカルの学びを深めたことも同サイトに記されている。その後、ビクター音楽産業からシンガーソングライターとしてデビューが決まり、公式ヒストリーでは1992年7月22日にアルバム『Bingo!』を発表したと確認できる。4月12日は、単に“冬の女王”の誕生日というだけでなく、クラシックの訓練とポップの発想を結びつけた作り手の出発点を思い出す日でもある。

    「ロマンスの神様」が、冬をJ-POPの大きな舞台へ押し上げた

    公式ディスコグラフィーでは、「ロマンスの神様」は1993年12月1日発売のシングルとして掲載されている。プロフィールには、この曲がアルペンのCMソングとして起用され、約175万枚の大ヒットになったことが記されており、ここから広瀬香美は“冬の女王”として広く認識されるようになった。もちろん冬の楽曲自体はそれ以前から存在したが、広瀬香美の仕事は、恋愛、レジャー、都市の高揚感をまとめて“冬のJ-POP”という大きな景色にした点で特別だった。季節の風景をただ描くだけではなく、耳にした瞬間にゲレンデや年末の空気まで立ち上がるようなスケール感を作り上げたのである。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはデビュー作『Bingo!』で原点に触れたい。続けて1stシングル「愛があれば大丈夫」を聴くと、広瀬香美が最初からメロディメーカーとして強い個性を持っていたことがよくわかる。そしてやはり外せないのが「ロマンスの神様」。1993年12月1日という発売日を知った上で聴き直すと、この曲が単なるヒット曲ではなく、J-POPにおける“冬の定番”という概念そのものを更新した一曲だったことが見えてくる。

  • 4月11日は、森高千里の誕生日から“自分の言葉で歌うJ-POP”の広がりをたどる

    4月11日は、森高千里の誕生日から“自分の言葉で歌うJ-POP”の広がりをたどる

    4月11日は、森高千里の誕生日。1987年に「NEW SEASON」で歌手デビューし、1989年の「17才」で広く知られる存在になった彼女は、かわいらしさだけでは語れない“自分の言葉で歌うJ-POP”の輪郭をはっきり示したアーティストでもある。

    1969年4月11日生まれ、1987年に「NEW SEASON」でデビューした

    森高千里は1969年4月11日生まれ。オフィシャルサイトのディスコグラフィーでは、1stシングル「NEW SEASON」が1987年5月25日発売と確認できる。デビュー当初はアイドル的な期待を背負いながら登場したが、その後の歩みは単なる“人気歌手”には収まらなかった。1988年のアルバム『ミーハー』以降は作詞活動にも取り組み、身近な感情や生活感のある言葉をポップソングへ持ち込んでいく。4月11日は、そうした独自の視点をJ-POPに持ち込んだ森高千里の出発点を思い出す日にしたい。

    「17才」のヒットが、J-POPにおける“キャラクターと作家性”の両立を広げた

    オフィシャルサイト掲載のベスト盤収録情報では、「17才」は7thシングルとして1989年5月25日発売と記されている。この曲のヒットによって森高千里は一気に広い層へ浸透したが、重要なのはそこで終わらなかったことだ。ユーモア、違和感、日常の観察眼を含む歌詞世界は、のちの代表曲群にもつながっていく。親しみやすいスター性を保ちながら、歌い手本人の視点がちゃんと作品に宿っている。その両立は1990年代J-POPにおいて意外に貴重で、後に“自分で言葉を書く女性シンガー”が自然に受け止められていく流れの一端を担ったと言える。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはデビュー曲「NEW SEASON」。80年代後半の空気をまといながら、森高千里という存在がシーンへ入ってきた瞬間の瑞々しさを感じられる。続けて「17才」を聴けば、彼女が大衆的なポップアイコンとして広がった理由がわかるはずだ。さらに「私がオバさんになっても」までたどると、年齢や視線をユーモラスに歌へ変える作家としての面白さも見えてくる。4月11日は、森高千里の誕生日を入口に、J-POPの言葉の自由さを聴き直したい。