カテゴリー: 今日の日本音楽史

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  • 5月24日は、上杉昇の声が90年代J-POPの輪郭を広げた時代を聴き返したい

    5月24日は、上杉昇の声が90年代J-POPの輪郭を広げた時代を聴き返したい

    5月24日は、90年代J-POPが売上の大きさだけでなく、声の陰影や言葉の質感でも記憶される時代だったことを思い出したくなる日だ。上杉昇はWANDSの初代ボーカルとして、そのど真ん中に立ちながら、後年の活動まで一貫してロックの衝動を抱え続けた。

    5月24日は、上杉昇の誕生日からWANDSの時代をたどりたい

    上杉昇は1972年5月24日生まれ。1991年にWANDSを結成し、1991年から1996年にかけて同バンドのボーカルとして活動した。のちに本人も語っているように、もともとはハードロックやヘヴィメタル志向を持ちながらデビューしたが、WANDSではビーイング系J-POPの洗練されたポップネスと向き合うことになる。その張りつめた声と少し影を帯びた歌い方は、「もっと強く抱きしめたなら」「時の扉」「世界が終るまでは…」のような代表曲に独特の切実さを与えた。5月24日は、90年代のメインストリームの中で異物感すら魅力に変えていた歌声を振り返るのにふさわしい日だ。

    J-POPの大衆性とロックのざらつきを、同じ声の中で鳴らした

    上杉昇の面白さは、単にヒット曲を歌った人というだけでは終わらないところにある。WANDS在籍期にはシングル11枚、オリジナルアルバム4枚を発表し、その後はal.ni.co、猫騙、ソロへと進みながら、よりオルタナティブで内省的な表現へ比重を移していった。つまり彼の軌跡は、90年代J-POPの巨大な商業空間から、もっと個人的でざらついたロック表現へ抜けていく流れそのものでもある。ポップスの器に収まりきらない感情が、むしろ多くのリスナーを惹きつけたという点で、上杉昇は日本のメジャー音楽史の中でもかなり特異な存在だったと言っていい。

    今日聴くなら

    今日はまずWANDSの「時の扉」や「世界が終るまでは…」を聴いて、90年代J-POPのスケール感の中で彼の声がどう前に出ていたかを確かめたい。そのうえでal.ni.coや近年のソロ音源に進むと、同じボーカリストの中にあったロックへの執着や言葉の鋭さが、別の輪郭で見えてくるはずだ。5月24日は、上杉昇の誕生日をきっかけに、ヒットの歴史だけでは拾いきれない日本のポップ/ロックの揺れ方を聴き直したい。

  • 5月23日は、Eveがネット発の感性をJ-POPの現在地へ押し広げた流れをたどりたい

    5月23日は、Eveがネット発の感性をJ-POPの現在地へ押し広げた流れをたどりたい

    5月23日は、インターネット発の音楽が一時的なブームではなく、日本のポップミュージックの本流そのものを更新してきた流れを思い出したくなる日だ。Eveはその象徴的な存在のひとりで、ネットの匿名性や自由さを保ちながら、アニメ主題歌や大型会場のライブまで表現の射程を広げてきた。

    5月23日は、Eveの歩みからネット発アーティストの転換点を考えたい

    Eveは5月23日生まれのシンガーソングライター/ミュージシャン。2009年頃からインターネットを中心に活動を始め、歌い手カルチャーとボカロ以後の感性を横断しながら支持を集めてきた。さらに2016年には自身で作詞作曲を手がけた初の全国流通盤『OFFICIAL NUMBER』をリリースし、ネット上の人気だけでは終わらない本格的なキャリアへ踏み出している。個人発信から始まった表現が、作品性を保ったまま広いリスナー層へ届くようになった流れを、日本の音楽史のひとつの節目として見るなら、5月23日はかなり象徴的な日付だ。

    アニメとMV時代のJ-POPに、新しい届き方を持ち込んだ

    Eveの重要さは、楽曲単体の強さだけでなく、届け方そのものを更新した点にもある。インクス・トゥエンターのプロフィールでも、代表曲として「廻廻奇譚」や「ファイトソング」が挙げられ、作品ごとに異なるクリエイターと組んだアニメーションMVが高く評価されてきたことがわかる。顔や私生活を前面に出すのではなく、楽曲、映像、キャラクター、世界観を束ねて作品として成立させる手法は、SNS以後の音楽リスナーの感覚と強く結びついた。しかもそれはニッチに閉じず、アニメ主題歌や大規模ツアーを通じてJ-POPの中心にまで接続された。ネット発アーティストが“周辺”ではなく“現在地”になったことを示すうえで、Eveの存在は外せない。

    今日聴くなら

    今日はまず『OFFICIAL NUMBER』に戻って、歌い手文化の延長線上からソングライターとしての輪郭が立ち上がる瞬間を確かめたい。そのうえで「廻廻奇譚」や「ファイトソング」を聴くと、Eveが持つメロディの吸引力と、映像時代のポップスとしての設計の巧さがよく見えてくる。親密さと匿名性、ポップさと少しの不穏さを同居させる感覚は、まさに今の日本のネット発音楽の強みそのものだ。5月23日は、Eveの誕生日をきっかけに、その広がり方をあらためてたどってみたい。

  • 5月22日は、宇多丸とRHYMESTERが日本語ラップの批評性を広げた流れを聴き返したい

    5月22日は、宇多丸とRHYMESTERが日本語ラップの批評性を広げた流れを聴き返したい

    5月22日は、日本語ラップが単なる流行やスタイルではなく、言葉で時代と向き合う表現として根を張ってきた流れを思い出したくなる日だ。RHYMESTERのMCとして長くシーンを支えてきた宇多丸は、作品そのものだけでなく、語ること、批評することの面白さまで含めてヒップホップの裾野を広げてきた。

    1969年5月22日、宇多丸が生まれる

    宇多丸は1969年5月22日生まれ。大学時代の1989年にMummy-DらとRHYMESTERを結成し、1993年にはグループとして1stアルバム『俺に言わせりゃ』でインディーズデビューした。ジャパニーズヒップホップがまだ広く共有されたジャンルではなかった時代から活動を続け、2001年にはシングル「ロイヤル・ストレート・フラッシュ」でメジャーデビューを果たしている。5月22日は、一人のラッパーの誕生日というだけでなく、日本語ラップが地下の熱量を保ちながら社会的な言葉へ育っていく流れを確かめる節目としても眺められる。

    ラップと批評をつなぎ、日本語ラップの見取り図を広げた

    宇多丸の重要さは、RHYMESTERのMCとして高度な言語感覚を提示してきたことに加え、音楽や映画を語る場でも一貫して批評の姿勢を示してきた点にある。RHYMESTERは技巧やユーモア、社会への視線を同時に成立させるグループとして、日本語ラップの成熟を象徴してきた。その中心にいる宇多丸は、ヒップホップを閉じたカルチャーにせず、ラジオや雑誌連載などを通じて外の聴き手にも接続してきた。語る言葉まで含めて表現にしてきたからこそ、日本語ラップは作品単体ではなく、考え方ごと届く文化として広がっていった。

    今日聴くなら

    今日はまずRHYMESTERの初期作品に戻って、90年代の日本語ラップが持っていた言葉の密度と現場感を味わいたい。そのうえでメジャー期の楽曲を聴くと、シーンの拡大に合わせてサウンドもメッセージもどう更新されていったかが見えてくる。派手な記号だけではない、日本語でラップすることの説得力を確かめるには格好の入り口だ。5月22日は宇多丸の誕生日をきっかけに、RHYMESTERが積み上げてきた日本語ラップの批評性と強度をあらためて聴き返したい。

  • 5月20日は、LUNA SEAの河村隆一が切り開いた90年代ロックの声を聴き返したい

    5月20日は、LUNA SEAの河村隆一が切り開いた90年代ロックの声を聴き返したい

    5月20日は、日本のロックがアリーナ級のスケールと繊細な情感を同時に抱え込んでいた90年代を思い出したくなる日だ。LUNA SEAのボーカリストとして、そしてソロシンガーとしても独特の声を響かせてきた河村隆一は、日本のロックがより広い聴き手へ届く入口を作った一人だった。

    1970年5月20日、河村隆一が生まれる

    河村隆一は1970年5月20日生まれ。1989年に結成されたLUNA SEAでボーカルを務め、バンドは1991年にメジャーデビューした。90年代の日本のロックシーンにおいて、LUNA SEAは激しさと美しさを同時に鳴らす存在として大きな支持を集めるが、その中心にあったのが河村の伸びやかな歌声だった。5月20日は、一人の人気ボーカリストの誕生日というだけでなく、日本のロックがよりドラマティックに、そして大衆的に広がっていった流れをたどる日としても意味がある。

    LUNA SEAとソロの両輪で広げた日本語ロックの間口

    河村隆一の重要さは、LUNA SEAのフロントマンとしてバンドの世界観を象徴したことに加え、ソロ活動でロックの外側にいた層へも自分の歌を届けた点にある。LUNA SEAはヴィジュアル面の印象だけで語りきれない演奏力と構築性を持ち、90年代以降の多くのバンドに影響を与えた。河村のボーカルはそのサウンドを感情の中心で束ねる役割を果たしていた。またソロでは、バンドとは異なる手触りのバラードやポップスでも広く存在感を示し、日本語ロックの歌い方が持つ艶やかさを一般的なポップの文脈へ持ち込んだ。

    今日聴くなら

    今日はまずLUNA SEAの代表曲から、張りつめた演奏の中を河村の声がどう突き抜けていくかを確かめたい。そのうえでソロ名義の作品へ移ると、同じ歌い手がバンドの緊張感とポップスの親密さをどう行き来してきたかが見えてくる。90年代の日本のロックは、閉じたジャンルではなく、歌声ひとつで広い場所へ届くことを証明してきた。5月20日は、河村隆一の誕生日をきっかけに、その広がりをあらためて聴き直したい。

  • 5月19日は、鈴木博文が育てたムーンライダーズ以後のことばを聴き返したい

    5月19日は、鈴木博文が育てたムーンライダーズ以後のことばを聴き返したい

    5月19日は、日本のロックやポップスの流れを「大きなヒット」ではなく「言葉の手触り」から辿りたくなる日だ。ムーンライダーズのベーシストとして、そして作詞家、作曲家、プロデューサーとして動き続けてきた鈴木博文は、派手に時代を制圧するタイプではない。それでも彼の仕事は、都市的でひねりのある日本語のポップスがどこまで自由になれるかを、長い時間をかけて示してきた。

    1954年5月19日、鈴木博文が生まれる

    鈴木博文は1954年5月19日生まれ。ムーンライダーズのベーシストとして知られ、作詞家、作曲家、シンガーソングライターとしても活動してきた。実兄は同じくムーンライダーズの鈴木慶一で、博文は1975年のムーンライダーズ結成時から参加している。さらに1985年には生家2階に湾岸スタジオを開設し、1987年にはインディーズ・レーベルのメトロトロン・レコードを主宰した。5月19日は、一人のプレイヤーの誕生日というだけでなく、日本のインディー以後の音楽文化を支えた編集感覚の出発点としても思い出したい日である。

    ムーンライダーズ以後の日本語ポップスに残した感覚

    鈴木博文の重要さは、ムーンライダーズの一員として都市生活のねじれやユーモアを含んだ歌を作ってきたことに加えて、その周辺へ広がる仕事の多さにある。メトロトロン・レコードでは、自身の作品だけでなくカーネーションや青山陽一らの作品も送り出し、メジャーとは別の速度で育つ日本語ロックやポップの場を支えた。また作詞家としても、高橋幸宏、中川勝彦、堀ちえみらに詞を提供している。前に出過ぎず、けれど確実に語彙と景色を変えていく。その姿勢は、80年代以降の日本のポップスにおける「裏方の美学」を体現しているように見える。

    今日聴くなら

    今日はまずムーンライダーズの作品から、彼らしい言葉の屈折と軽やかさが感じられる曲を選びたい。そのうえで鈴木博文のソロや、メトロトロン周辺のカーネーション、青山陽一までつなげて聴くと、一つのバンドの歴史ではなく、日本のインディーとポップスを横断する流れとして見えてくる。大きな物語の陰で、音楽の空気を少しずつ変えていく人がいる。5月19日は、鈴木博文の誕生日をきっかけに、そういう静かな更新の歴史へ耳を澄ませたい。

  • 5月18日は、槇原敬之のソングライティングがJ-POPの標準語になったことを思い出す

    5月18日は、槇原敬之のソングライティングがJ-POPの標準語になったことを思い出す

    5月18日は、J-POPの中で「ふつうの言葉がそのまま歌になる瞬間」を思い出したくなる日だ。大げさな比喩に頼らず、日常の温度をそのままメロディに乗せて、多くの人の気分の置き場所を作ってきた書き手がいる。1969年5月18日生まれの槇原敬之は、その代表格として1990年代以降の日本のポップスに大きな足跡を残した。

    1969年5月18日、槇原敬之が生まれる

    槇原敬之は1969年5月18日、大阪府高槻市生まれ。1990年にシングル「NG」、アルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でデビューし、翌1991年の「どんなときも。」で一気に広く知られる存在になった。この曲は映画主題歌としても浸透し、ミリオンヒット級の代表作となる。その後も「もう恋なんてしない」「SPY」「遠く遠く」「世界に一つだけの花」など、自身の歌手活動だけでなく提供曲を通じても強い存在感を発揮した。誕生日である5月18日は、彼のキャリア全体を振り返る入り口としてちょうどいい。

    日常語をポップスの芯にしたソングライティング

    槇原敬之の重要さは、90年代J-POPの大ヒットを支えたことだけではない。彼の歌詞は、劇的な事件よりも、ためらい、後悔、励まし、言い切れない優しさのような日常の感情を、会話に近い言葉で丁寧にすくい上げるところに特徴がある。その一方で、メロディは親しみやすく、それでいて転調やコード進行には確かな工夫があり、何度聴いても平板にならない。シンガーソングライターとしての内省性と、広く共有されるポップスとしての開放感を両立させたことで、槇原の作品は「個人の歌」でありながら「みんなの歌」として機能した。そうした書き方は、以後のJ-POPにおけるひとつの標準語になったと言っていい。

    今日聴くなら

    今日はまず「どんなときも。」を聴きたい。自分を励ます言葉が押しつけにならず、ちゃんと歌として残る、そのバランス感覚がよくわかる。次に「もう恋なんてしない」を流すと、失恋の情けなさとユーモアが同居する槇原敬之らしさがはっきり見える。さらに、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」までつなげると、個人の心情を歌ってきた書き手が、時代全体に共有されるメッセージをどう作ったのかも感じ取れるはずだ。5月18日は、槇原敬之の歌がJ-POPの言葉遣いそのものを広げたことを改めて確かめたい日である。

  • 5月17日は、Every Little Thing初期の輪郭を作った五十嵐充の仕事を聴き返したい

    5月17日は、Every Little Thing初期の輪郭を作った五十嵐充の仕事を聴き返したい

    5月17日は、Every Little Thingの初期サウンドを思い出すのにちょうどいい日だ。90年代後半のJ-POPを振り返ると、歌そのものの強さだけでなく、打ち込みと生楽器のバランス、切なさを前に押し出すコード進行、そして耳に残るサビの設計まで含めて時代の空気を作った制作者がいる。その代表例のひとりが、5月17日生まれの五十嵐充である。

    1969年5月17日、五十嵐充が生まれる

    五十嵐充は1969年5月17日、神奈川県横浜市生まれ。幼少期からエレクトーンに親しみ、のちにギターも経験しながら音楽の基礎を広げていった。1990年代前半にはエイベックス周辺で制作の経験を積み、1995年には後にEvery Little Thingのボーカルとなる持田香織の声を使ったデモ制作を担当。その流れから、1996年8月に持田香織、伊藤一朗とともにEvery Little Thingとしてシングル「Feel My Heart」でデビューする。グループではリーダー兼サウンド・プロデューサーとして、初期の大半の楽曲で作詞・作曲・編曲を担ったことが大きい。

    90年代後半J-POPの手触りを決めたプロデュース感覚

    五十嵐充の仕事が日本音楽史の中で重要なのは、Every Little Thingを単なるヒットユニットで終わらせなかった点にある。「Dear My Friend」「For the moment」「出逢った頃のように」「Time goes by」などに通じるのは、当時のエイベックスらしい打ち込みの鮮やかさと、歌謡曲的な哀感を両立させる設計だ。派手なテンポ感を持つ曲でもメロディは過剰に軽くならず、逆にバラードでは余白を残して歌を立たせる。そのバランス感覚が、TK以後のJ-POPが多様化していく局面でELTを独自の場所に押し上げた。2000年3月に本人は作曲・編曲・プロデュース業へ専念するためグループを離れるが、初期ELTの輪郭は今なお五十嵐の仕事として聴き取れる。

    今日聴くなら

    今日はまずデビュー曲「Feel My Heart」から入るのがいい。90年代後半J-POPのスピード感ときらめきが凝縮されている。次に「Time goes by」を聴くと、五十嵐充が単なる打ち込み職人ではなく、長く残るメロディを書く人だったことがはっきりわかる。さらに「出逢った頃のように」を並べれば、ポップさと切なさを同時に走らせる手腕も見えてくる。5月17日は、Every Little Thing初期の名曲群を通して、五十嵐充が90年代J-POPに刻んだ質感そのものを聴き返したい日だ。

  • 5月16日は、ささきいさおがアニメソングを主役の歌に押し上げた歩みを思い出す

    5月16日は、ささきいさおがアニメソングを主役の歌に押し上げた歩みを思い出す

    5月16日は、ささきいさおの誕生日。日本のポップカルチャーを振り返ると、アニメソングが「子ども向けの添え物」ではなく、作品の世界観そのものを背負う歌として広く届くようになった転換点がいくつもある。その流れの中心にいたひとりが、ロカビリー歌手として出発し、俳優や声優も経験しながら、アニメソングの代表的な声になっていったささきいさおだ。

    1942年5月16日、ささきいさおが生まれる

    ささきいさおは1942年5月16日、東京都目黒区生まれ。1960年に日本コロムビアから「本命はお前だ」でロカビリー歌手としてデビューし、「和製プレスリー」の呼び名でも知られた。その後は俳優や吹き替え、声優の仕事も重ね、1972年には『科学忍者隊ガッチャマン』でコンドルのジョー役を担当。さらに1973年、『新造人間キャシャーン』の主題歌歌手に抜擢されたことを機に、アニメソング歌手としての存在感を一気に強めていく。もともとの歌手経験に、役者としての表現力と声優としての説得力が重なったことが、この人の強さだった。

    『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』が示したスケール

    ささきいさおの名前を日本の音楽史に刻んだ決定打として、やはり『宇宙戦艦ヤマト』と『銀河鉄道999』は外せない。どちらも単なる主題歌ヒットにとどまらず、作品の壮大さやドラマ性を、歌そのものが先導していく感覚を多くのリスナーに植えつけた。低く太い声でまっすぐ押し出す歌唱は、当時のアニメソングのイメージを拡張し、子どもだけでなく大人の耳にも届く“作品音楽”としての格を与えたと言っていい。水木一郎、堀江美都子らと並んで黎明期を支えた功績は大きいが、その中でもささきいさおは、ロマンや哀愁、英雄性を一曲の中で同居させる力が際立っていた。

    今日聴くなら

    今日はまず「宇宙戦艦ヤマト」を聴きたい。イントロの時点で物語が始まるあの高揚感は、今聴いても圧倒的だ。続けて「銀河鉄道999」に進むと、広い宇宙へ向かう憧れや寂しさまで歌に乗せられる人だったことがよくわかる。もしもう一歩たどるなら、『新造人間キャシャーン』の主題歌も面白い。5月16日は、アニメソングが日本の大衆音楽の中で確かな居場所を持つまでの歩みを、ささきいさおの声から聴き直したい日だ。

  • 5月15日は、常田大希の越境する音楽感覚がJ-POPの景色を塗り替えたことを思い出す

    5月15日は、常田大希の越境する音楽感覚がJ-POPの景色を塗り替えたことを思い出す

    5月15日は、King Gnuとmillennium paradeの中心人物・常田大希の誕生日。近年の日本のポップミュージックを振り返ると、ジャンルの境界をまたぐこと自体がひとつの当たり前になってきたが、その流れを強い説得力で前に進めたひとりが常田大希だ。ロックバンドのダイナミズム、クラシック由来の構築性、ヒップホップ以降のビート感覚を同じ画面に置けることを、彼は作品ごとに証明してきた。

    1992年5月15日、常田大希が生まれる

    常田大希は1992年5月15日、長野県伊那市生まれ。5歳からチェロを学び、東京藝術大学音楽学部器楽科チェロ専攻に進学したのち中退した。2013年にSrv.Vinci名義で活動を始め、メンバーチェンジを経て2017年にKing Gnuへ改名。さらに2019年1月にはアルバム『Sympa』でメジャーデビューを果たし、同年にはmillennium paradeも本格始動させた。クラシックの素養を持ちながら、最終的に向かった先が“閉じた専門性”ではなく“社会と接続するポップ”だったところに、常田の面白さがある。

    J-POPの更新を体感させた存在

    King Gnuが広く浸透した理由は、単に洗練されているからではない。常田が書く楽曲は、難解さを飾りとして使わず、メロディの強さや言葉の引っかかりをきちんとポップの中心に置いている。そのうえで、バンドアンサンブルにはブラックミュージックや現代的なビート感覚、映像的なスケール感が混ざり、従来のJ-POPの文法だけでは回収しきれない響きを作ってきた。millennium paradeで見せる実験性、米津玄師「KICK BACK」やSixTONES「マスカラ」など外部仕事での存在感まで含めると、常田大希は“バンドマン”という枠だけでは足りない。2010年代後半以降の日本の音楽シーンで、越境する感覚そのものをメインストリームに押し上げた立役者のひとりと言っていい。

    今日聴くなら

    まずはKing Gnuの『Sympa』を通して聴きたい。2019年のメジャーデビュー作でありながら、すでに彼らの方法論がかなりはっきり刻まれていて、バンドの攻めた感覚と大衆性が同時に鳴っている。そのあとに「白日」や「飛行艇」、さらにmillennium parade名義の作品へ進むと、常田大希が一つの成功パターンに留まらず、音の輪郭を何度も塗り替えてきたことがわかるはずだ。5月15日は、日本のポップスがどこまで自由に混ざり合えるかを体感させた作り手として、常田大希の仕事をあらためて聴き返したい。

  • 5月14日は、戦後歌謡の気品を支えた奈良光枝を聴き返したい

    5月14日は、戦後歌謡の気品を支えた奈良光枝を聴き返したい

    5月14日は、奈良光枝の命日。戦後日本の歌謡史をたどると、映画とレコードとラジオが一体になってスターを生み出していた時代に行き当たる。その真ん中で、気品のある歌声と銀幕映えする存在感をあわせ持ち、流行歌を広く届けた歌手のひとりが奈良光枝だった。

    1977年5月14日、奈良光枝が世を去る

    奈良光枝は1923年6月13日に青森県弘前市で生まれ、1940年にコロムビアの専属歌手となった。古賀政男門下に入ったのち、1942年に藤山一郎とのデュエット曲「青い牧場」で初ヒットを記録する。戦後は映画と歌の両方で存在感を強め、近江俊郎と歌った「悲しき竹笛」が大ヒット。その後も藤山一郎との「青い山脈」、ソロでの代表曲「赤い靴のタンゴ」などを通じて、昭和の流行歌を象徴する歌手になった。NHK紅白歌合戦には9回連続で出場し、1977年5月14日に53歳で死去している。

    戦後歌謡に“気品”を持ち込んだ存在

    奈良光枝の重要さは、単にヒット曲が多いことだけではない。クラシック志向の素地を持ちながら、マイクで届く流行歌へと重心を移し、戦後の大衆文化にふさわしい歌の美しさを作った点にある。映画主題歌とレコードが密接につながっていた時代に、彼女の声は物語の余韻そのものとして機能した。「悲しき竹笛」の叙情、「青い山脈」の晴れやかさ、「赤い靴のタンゴ」の洗練は、それぞれ違う表情を見せながらも、奈良光枝の品のある歌唱によって一つの時代の空気に結びついている。戦後歌謡が“懐メロ”として消費されるだけではもったいないと思わせる理由は、まさにこの質感にある。

    今日聴くなら

    まずは近江俊郎との「悲しき竹笛」。戦後の歌謡映画がどれほど大衆の感情と結びついていたかを、まっすぐ感じられる一曲だ。続けて藤山一郎との「青い山脈」を聴けば、復興期の明るさと解放感が音楽にどう刻まれていたかがよくわかる。さらに「赤い靴のタンゴ」まで辿ると、奈良光枝が単なる映画主題歌の人ではなく、ソロ歌手としても独自の品格を残したことが見えてくる。5月14日は、戦後歌謡の輪郭を作った歌声を静かに聴き返したい。