カテゴリー: 今日の日本音楽史

日本音楽の歴史的イベントを毎日紹介

  • 3月21日は、加藤和彦の誕生日から日本のフォークとロックの越境をたどる

    3月21日は、加藤和彦の誕生日から日本のフォークとロックの越境をたどる

    3月21日は、加藤和彦の誕生日。日本のポップス史を振り返ると、フォーク、カウンターカルチャー、そして洗練されたロックやポップへと、時代をまたぎながら軽やかに越境した音楽家はそう多くない。加藤和彦は、その移り変わりを一人のキャリアの中で体現した存在だった。

    1947年3月21日生まれ、ザ・フォーク・クルセダーズで時代の空気をつかんだ

    加藤和彦は1947年3月21日生まれ。1960年代後半、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーとして広く知られるようになり、1967年に発表された「帰って来たヨッパライ」は日本のポピュラー音楽史に残る大ヒットとなった。コミカルでありながら、当時の若者文化や実験精神を強く感じさせるこの曲は、単なる話題曲ではなく、日本のフォークが既成の歌謡曲とは違う方法で社会とつながれることを示した一曲でもある。加藤和彦はこの段階ですでに、ヒットメーカーというだけでなく、時代の感覚を音に変える人として特別な立ち位置にいた。

    「あの素晴しい愛をもう一度」からサディスティック・ミカ・バンドへ

    加藤和彦の面白さは、一つの成功パターンにとどまらなかったことだ。北山修との共作で知られる「あの素晴しい愛をもう一度」は、フォークソングとして長く歌い継がれるスタンダードになった。一方で1970年代にはサディスティック・ミカ・バンドを率い、よりロック色の強いサウンドへ進む。ここでは海外のロックやポップスを参照しながらも、日本語の感触や都市的なセンスを失わず、後のニューウェーブやシティポップにもつながるような洗練を先取りしていた。フォークの人、ロックの人と単純に括れないところに、加藤和彦の音楽家としての大きさがある。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」で、60年代の日本のポップが持っていた遊び心と突破力に触れたい。次に「あの素晴しい愛をもう一度」を聴けば、加藤和彦がメロディメーカーとしてどれほど強かったかがよくわかる。さらにサディスティック・ミカ・バンドの作品へ進むと、日本の音楽がフォークからロック、そしてより自由なポップ表現へ広がっていく流れが立体的に見えてくる。3月21日は、その越境の軌跡をたどるのにぴったりの日だ。

  • 3月20日は、竹内まりやの誕生日からJ-POPの普遍性を聴き直す

    3月20日は、竹内まりやの誕生日からJ-POPの普遍性を聴き直す

    3月20日は、竹内まりやの誕生日。日本のポップスを長く聴いていると、時代ごとの流行をくぐり抜けながら、何度でも戻ってきたくなる曲を書く人がいる。竹内まりやはまさにその一人で、シティポップ文脈の再評価だけでは収まりきらない、J-POPの普遍性そのものを体現してきた存在だ。

    1955年3月20日生まれ、1978年にデビューした竹内まりや

    竹内まりやは1955年3月20日生まれ、島根県出身のシンガーソングライター。大学在学中から音楽活動を始め、1978年にシングル「戻っておいで・私の時間」、アルバム『BEGINNING』でデビューした。初期から英米ポップスの影響を感じさせる軽やかな感覚と、日本語の響きを崩さない歌作りを両立していたのが大きな魅力だった。80年代以降は自身の歌手活動に加え、作家としても存在感を強め、ポップスを“おしゃれ”で終わらせず、生活に残る歌へと仕上げる力を発揮していく。

    自作曲と提供曲の両輪で、J-POPの定番を作ってきた

    竹内まりやの重要さは、自分で歌う代表曲と、他の歌手に託した楽曲の両方が長く愛されている点にある。1984年のアルバム『VARIETY』に収録された「PLASTIC LOVE」は、後年になって世界的な再評価を受け、シティポップを象徴する一曲として広く知られるようになった。一方で、薬師丸ひろ子「元気を出して」や中森明菜「駅」など、提供曲やセルフカバーを含む仕事でも、聴き手の記憶に強く残る言葉と旋律を生み出してきた。派手な一発ではなく、年月とともに意味を増していく曲を書けることこそ、竹内まりやが日本の音楽史に刻まれている理由だ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは「PLASTIC LOVE」で竹内まりやの洗練されたポップセンスを味わいたい。次に『VARIETY』へ進めば、80年代の空気をまといながらも古びない楽曲の強さがよくわかる。さらに「元気を出して」や「駅」に耳を伸ばすと、彼女が単なるシティポップのアイコンではなく、人生の節目に寄り添う言葉を書き続けてきたソングライターだと実感できる。3月20日は、竹内まりやの曲がなぜ今も日常に戻ってくるのかを確かめたくなる日だ。

  • 3月19日は、尾崎亜美の誕生日から歌い継がれるポップスの強さをたどる

    3月19日は、尾崎亜美の誕生日から歌い継がれるポップスの強さをたどる

    3月19日は、シンガーソングライター尾崎亜美の誕生日。日本のポップスを振り返ると、彼女の名前は自作曲の世界だけでなく、他の歌い手に託した楽曲の強さと一緒に思い出される。書き手としての個性と、歌い継がれるメロディーの普遍性が両立しているところに、尾崎亜美の面白さがある。

    3月19日生まれ、1976年にデビューした尾崎亜美

    尾崎亜美は1957年3月19日生まれ。京都出身のシンガーソングライターで、1976年にシングル「冥想」でデビューした。同年にはアルバム『SHADY』も発表し、早い段階からソングライターとしての資質に注目が集まった。自分で歌う表現者である一方、ピアノを軸にした洗練されたメロディーと、親しみやすさのある言葉選びで、70年代後半の日本のポップスにしなやかな手触りを持ち込んだ存在でもある。派手な強さではなく、聴くほどに輪郭が残る曲を書く人だったことが、長いキャリアの土台になった。

    「オリビアを聴きながら」や「天使のウィンク」に続く仕事の広がり

    尾崎亜美の重要さは、提供曲の並びを見るとよくわかる。1978年には杏里のデビュー曲「オリビアを聴きながら」の作詞・作曲を手がけ、この曲は発売当時の順位以上に、後年スタンダードとして歌い継がれる一曲になった。さらに松田聖子「天使のウィンク」など、多くのアーティストへ楽曲を提供し、80年代以降のJ-POPに軽やかさと洗練を加えていく。本人の歌声で聴くと繊細に響く曲が、別の歌い手を通すとまた違う輪郭を見せる。この“書き手としての強さ”こそ、尾崎亜美が日本のポップス史で特別な理由だ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは尾崎亜美自身の「マイ・ピュア・レディ」で、メロディーメイカーとしてのしなやかさを味わいたい。そこから杏里「オリビアを聴きながら」に移ると、提供曲が時代を越えて残る理由がよくわかる。さらに松田聖子「天使のウィンク」まで聴けば、尾崎亜美が一人のアーティストに閉じず、日本のポップス全体の響きを豊かにしてきたことが実感できる。3月19日は、作者の名前からJ-POPを聴き直したくなる日だ。

  • 3月18日は、森高千里の誕生日から80年代末J-POPの更新を振り返る

    3月18日は、森高千里の誕生日から80年代末J-POPの更新を振り返る

    3月18日は、森高千里の誕生日。1980年代末から90年代のJ-POPを振り返ると、彼女はアイドル的な華やかさだけでは収まらない存在だった。歌い手としての親しみやすさと、日常を自分の言葉で切り取る作詞感覚が同居していたからこそ、いま聴き返しても妙に生々しく、ポップだ。

    3月18日に生まれた森高千里と1987年デビュー

    森高千里は1969年3月18日生まれ、熊本県出身。1987年に映画『あいつに恋して』の主演と主題歌でデビューし、その後、歌手として本格的に活動を広げていった。初期はアイドル文脈で受け止められることも多かったが、80年代後半の時点で彼女の存在は少し特別だった。かわいらしさや話題性だけではなく、本人が作詞に関わりながら、身近な感情や生活の手触りをポップソングへ持ち込んでいったからだ。大量生産的なイメージで語られがちな当時の女性ソロ歌手の中でも、自分の視点を前に出せる人として印象を残した。

    『17才』以降に広がった独自の言葉とJ-POPの更新

    1989年に発表した「17才」は、南沙織の楽曲をカバーしながら、森高千里の名前をより広い層へ届けた代表作として知られる。ただ、彼女の重要さはヒット曲の数だけでは語れない。「私がオバさんになっても」や「気分爽快」のように、年齢観や日常感覚、女性の本音をユーモアと観察眼で歌詞に落とし込んだ仕事は、後のJ-POPにも確かな影響を残した。大げさな物語ではなく、生活の中の違和感や可笑しさを歌にできることを示した点で、森高千里は80年代末から90年代のポップスを更新した一人だと言っていい。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは「17才」で森高千里の軽やかなポップ感覚を味わいたい。続けて「私がオバさんになっても」を聴けば、流行の中に自分の視点を持ち込む彼女らしさがよくわかる。さらに「気分爽快」までつなげると、親しみやすさと作家性がしっかり両立していたことも見えてくる。3月18日は、森高千里の誕生日をきっかけに、J-POPが日常の言葉をどう豊かにしてきたかを聴き直したい日だ。

  • 3月17日は、甲本ヒロトの誕生日から日本のロックのまっすぐさを聴き返す

    3月17日は、甲本ヒロトの誕生日から日本のロックのまっすぐさを聴き返す

    3月17日は、甲本ヒロトの誕生日。日本のロックを語るとき、世代をまたいで名前が挙がるボーカリストは多くないが、その筆頭のひとりが彼だ。叫ぶようでいて親しみがあり、シンプルなのに忘れがたい。そんな歌の強さは、いま聴き返しても少しも色あせない。

    3月17日に生まれた甲本ヒロトと1985年のTHE BLUE HEARTS結成

    甲本ヒロトは1963年3月17日生まれ。1985年に真島昌利らとTHE BLUE HEARTSを結成し、日本のロックシーンに決定的な存在感を刻んだ。パンクの初期衝動を持ちながらも、難解さではなく誰にでも届く言葉で歌ったことが彼らの大きな特徴だった。「リンダ リンダ」や「TRAIN-TRAIN」のように、シンプルなフレーズがそのまま時代の空気をつかみ、学生から社会人まで幅広い層に浸透していった流れは、日本語ロックの大きな転換点として今も語られる。

    THE HIGH-LOWS、ザ・クロマニヨンズへ続く一貫した姿勢

    THE BLUE HEARTSの活動休止と解散を経ても、甲本ヒロトの物語は止まらない。真島昌利とともにTHE HIGH-LOWSを経て、2006年からはザ・クロマニヨンズでも活動を継続。バンド名や時代が変わっても、身体ごと前へ出るようなボーカル、ロックンロールへの信頼、子どもにも大人にも届く言葉選びは一貫している。技巧を誇示するのではなく、聴き手の胸にまっすぐ届く歌を鳴らし続けてきたことこそ、甲本ヒロトが長く支持される理由だろう。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはTHE BLUE HEARTSの「リンダ リンダ」と「TRAIN-TRAIN」で、甲本ヒロトの声が持つ爆発力と開放感を味わいたい。さらにザ・クロマニヨンズの楽曲までつなげて聴くと、衝動だけで終わらない持続力がよくわかる。3月17日は、甲本ヒロトの誕生日をきっかけに、日本のロックが持つまっすぐさと自由さをあらためて体感したい日だ。

  • 3月16日は、小比類巻かほるの誕生日から80年代ポップスの洗練を聴き返す

    3月16日は、小比類巻かほるの誕生日から80年代ポップスの洗練を聴き返す

    3月16日は、小比類巻かほるの誕生日。1980年代後半のJ-POPを振り返るとき、彼女の名前はもっと再発見されていい。ソウルやR&Bの手触りを日本のポップスへ自然に接続しながら、都会的で芯のあるボーカルを鳴らしたその仕事は、いま聴いてもかなり新鮮だ。

    3月16日に生まれた小比類巻かほると1985年デビューのインパクト

    小比類巻かほるは1967年3月16日生まれ、青森県三沢市出身。1985年10月21日にシングル「Never Say Good-Bye」でデビューし、同年にはファースト・アルバム『CALL MY NAME』も発表した。デビュー直後から、当時の歌謡曲やロックとは少し異なる、海外ポップスやR&Bに接続した洗練をまとっていたのが特徴だ。EPIC・ソニーの80年代ラインナップの中でも、佐野元春や渡辺美里、TM NETWORKらと並びながら、よりしなやかでブラックミュージック志向の手触りを持ち込んだ存在として印象に残る。

    「Hold On Me」や「City Hunter〜愛よ消えないで〜」が示した洗練

    小比類巻かほるの代表曲として広く知られるのが「Hold On Me」や「City Hunter〜愛よ消えないで〜」だ。前者はドラマ主題歌としてヒットし、後者はアニメ『シティーハンター』のオープニング曲として多くのリスナーに届いた。強さとしなやかさを同時に感じさせる歌声、英語的なグルーヴ感を意識したメロディ運び、そして都会の夜景が似合うようなサウンドメイクは、80年代後半の国産ポップスがどこまで洗練できるかを示していた。後年にはプリンスやモーリス・ホワイトと仕事をしたことでも知られ、その国際感覚はキャリア全体を通して一貫している。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは「Hold On Me」で小比類巻かほるのボーカルの伸びやかさと切れ味を味わいたい。あわせて「City Hunter〜愛よ消えないで〜」を聴くと、アニメソングでありながらシティポップ以後の都会感をしっかり宿した表現がよくわかる。3月16日は、小比類巻かほるの誕生日をきっかけに、80年代J-POPが獲得した洗練とR&B感覚をあらためて聴き直す日にしたい。

  • 3月15日は、カヒミ・カリィの誕生日から渋谷系の軽やかな越境感を聴き直す

    3月15日は、カヒミ・カリィの誕生日から渋谷系の軽やかな越境感を聴き直す

    3月15日は、カヒミ・カリィの誕生日。1990年代の日本のポップカルチャーを振り返るとき、渋谷系という言葉と一緒に彼女の名前が浮かぶ人は多いはずだ。フレンチポップ、ボサノヴァ、ラウンジ感覚を軽やかに横断しながら、日本のインディー/ポップスに独特の空気を持ち込んだ存在として、いま聴き返してもやはり面白い。

    3月15日に生まれたカヒミ・カリィと渋谷系の時代感

    カヒミ・カリィは1968年3月15日生まれ。1990年代に渋谷系シーンを代表するひとりとして注目され、小山田圭吾や高木完ら周辺クリエイターとも交差しながら独自のポジションを築いた。日本語ポップスが英米ロックだけでなく、フランスのイェイェや映画音楽、ラウンジ、ボッサなどを自然に参照し始めた時代に、彼女のウィスパーボイスと洒脱な世界観は非常に象徴的だった。渋谷系を単なる流行語ではなく、都市文化とレコード趣味の混線として感じさせたアーティストのひとりと言っていい。

    軽やかさの裏にある編集感覚の鋭さ

    カヒミ・カリィの魅力は、かわいらしさや異国感だけではない。多様な音楽語彙を、気負わずポップとして成立させる編集感覚の鋭さにある。コーネリアス周辺とも響き合うミニマルなセンス、60年代ポップへの愛着、ファッションやアートとの親和性が一体になり、当時の日本のリスナーに「音楽を聴くこと」そのもののスタイルを提案していた。90年代の東京カルチャーを語るうえで、彼女の作品は街の空気まで含めて記録している点が大きい。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはアルバム『LARME DE CROCODILE』あたりから入ると、カヒミ・カリィらしい浮遊感とポップネスのバランスがよくわかる。あわせて初期の代表曲群を辿れば、渋谷系が単なる懐かしさではなく、越境的な参照感覚そのものだったことも見えてくる。3月15日は、カヒミ・カリィの誕生日をきっかけに、日本のポップスがどんなふうに世界の音を自分たちのセンスへ翻訳してきたのかを聴き直す日にしたい。

  • 3月14日は、五木ひろしの誕生日から歌謡曲と演歌の越境をたどる

    3月14日は、五木ひろしの誕生日から歌謡曲と演歌の越境をたどる

    3月14日は、五木ひろしの誕生日。歌謡曲と演歌の境界がいまよりずっとしなやかだった時代、その両方の文脈で長く第一線を走り続けた存在をたどると、日本の大衆音楽が持っていた幅の広さがよく見えてくる。

    3月14日に生まれた五木ひろしという存在

    五木ひろしは1948年3月14日、福井県生まれの歌手。1960年代後半から活動を始め、1971年の「よこはま・たそがれ」で大きな成功を収めた。その後も「夜空」「千曲川」「契り」などの代表曲を重ね、長年にわたり日本の歌謡界を支えてきた。演歌のスターとして語られることが多い一方で、初期のヒット曲群を聴くと、都市的なムード歌謡や歌謡ポップスに近い手触りも強い。だからこそ五木ひろしの誕生日は、演歌という一語では括り切れない日本の大衆歌謡の広がりを聴き直すきっかけになる。

    歌謡曲と演歌のあいだを行き来したヒット曲の強さ

    「よこはま・たそがれ」は1971年の大ヒットで、港町の情景と失恋の余韻を濃く描きながら、メロディ運びには歌謡曲らしい親しみやすさがある。その後の「夜空」や「千曲川」では、より演歌的な情感とスケール感が強まり、1982年の「契り」は日本レコード大賞も受賞した。五木ひろしの歩みの面白さは、単にヒットを連ねたことだけではない。高度成長期以後の日本で、大衆音楽がテレビ、レコード、カラオケ文化と結びつきながら広がっていく過程で、歌謡曲の開放性と演歌の持続力の両方を一人の歌手が背負っていたところにある。

    今日聴くなら

    今日まず聴きたいのは「よこはま・たそがれ」。五木ひろしの名が全国区になった決定打であり、歌謡曲としての耳なじみの良さと情景描写の巧さがよくわかる。もう一曲選ぶなら「契り」。円熟した歌唱と演歌ならではのドラマ性が結びついた代表作で、1980年代の大衆歌謡が持っていた強度を実感できる。3月14日は、五木ひろしの誕生日を入り口に、歌謡曲と演歌が地続きだった時代の豊かさを味わいたい。

  • 3月13日は、佐野元春の誕生日から日本語ロックの更新力をたどる

    3月13日は、佐野元春の誕生日から日本語ロックの更新力をたどる

    3月13日は、佐野元春の誕生日。1980年代以降の日本語ロックを語るとき、彼の名前はやはり外せない。デビュー作『アンジェリーナ』から「SOMEDAY」、そして『VISITORS』へと続く歩みをたどると、日本語の言葉とビートの関係を更新し続けてきた軌跡が見えてくる。

    3月13日に生まれた佐野元春という存在

    佐野元春は1956年3月13日、東京都生まれ。1980年にシングル「アンジェリーナ」でデビューし、早い段階からロックンロール、ポップス、ラジオカルチャー、都市の感覚を自在に横断する表現で注目を集めた。プロフィールでも知られる通り、「ガラスのジェネレーション」「SOMEDAY」「Young Bloods」「約束の橋」など、時代ごとに印象的な楽曲を残している。単にヒット曲を持つシンガーソングライターというだけでなく、日本語のフレーズをどのようにビートへ乗せるか、その可能性を拡張してきたアーティストとして重要だ。

    『SOMEDAY』と『VISITORS』が広げた日本語ロックの地平

    初期の代表作としてまず挙がるのが、1982年発表のアルバム『SOMEDAY』だ。ウォール・オブ・サウンドを取り入れたスケール感のある音像と、青春の焦燥や希望を切り取る言葉によって、佐野元春の存在はより広いリスナー層へ届くようになった。さらに1984年の『VISITORS』では、ニューヨーク滞在を経てラップやスポークン・ワードの感覚を大胆に吸収し、それまでの邦楽ロック像を大きく揺さぶった。発表当時は賛否を呼びながらも、結果的には日本のポップミュージックが新しいリズムと言葉遣いを受け入れていく流れの中で、見逃せない一作になっている。

    今日聴くなら

    今日あらためて聴くなら、まずは「SOMEDAY」。佐野元春のソングライティングが多くのリスナーに届いた理由を、いまの耳でもはっきり感じられるはずだ。もう一枚選ぶならアルバム『VISITORS』。キャッチーさだけではなく、更新しようとする意志そのものが記録された作品として面白い。3月13日は、佐野元春の誕生日をきっかけに、日本語ロックがどこで加速したのかを聴き直すのにちょうどいい日だ。

  • 3月12日は、野宮真貴という渋谷系の象徴をあらためて聴き直したい日

    3月12日は、野宮真貴という渋谷系の象徴をあらためて聴き直したい日

    3月12日は、渋谷系を語るうえで欠かせない歌手・野宮真貴の誕生日です。ピチカート・ファイヴのフロントとして90年代の日本ポップに洗練された輪郭を与えた存在を、今日あらためて聴き直したくなる日でもあります。

    イベントの概要

    野宮真貴は1960年3月12日、北海道白糠郡音別町(現・釧路市音別町)生まれの歌手です。1981年にシングル「女ともだち」でデビューし、のちにポータブル・ロックでも活動しました。1990年にはピチカート・ファイヴに3代目ヴォーカルとして加入。2001年3月の解散まで同グループのメイン・ヴォーカルを務め、グループの代表的な時期を支えました。誕生日というシンプルな出来事ではありますが、日本のポップ史においては、ひとつの美意識の象徴が生まれた日として見てよさそうです。

    作品・アーティストの意義

    ピチカート・ファイヴは1984年から2001年まで活動した日本の音楽グループで、1990年代の「渋谷系」を代表する存在として知られています。小西康陽が牽引する引用的で洒脱なサウンドに、野宮のクールで軽やかな歌声、そしてファッション性の高い佇まいが重なることで、音楽そのものだけでなく都市的なカルチャーの見え方まで更新しました。海外映画で楽曲が使われるなど国際的な広がりもあり、日本のポップがローカルな文脈を保ちながら世界へ開いていくひとつのモデルにもなったと言えるでしょう。

    今日聴くなら

    まず聴きたいのは「東京は夜の七時」。ピチカート・ファイヴの都市感覚と野宮の声の相性がよくわかる一曲です。もう一曲挙げるなら「スウィート・ソウル・レヴュー」。耳に残るメロディと軽快なグルーヴのなかに、90年代日本ポップの洗練が詰まっています。3月12日にこの2曲を聴くと、渋谷系が単なる流行語ではなく、いまも有効なセンスの束だったことがよく伝わってきます。