タグ: 歌謡曲

  • 4月6日は、伊東ゆかりの誕生日から和製ポップスの洗練を聴き直す

    4月6日は、伊東ゆかりの誕生日から和製ポップスの洗練を聴き直す

    4月6日は伊東ゆかりの誕生日。1960年代の日本のポップスを振り返ると、洋楽カバーの軽やかさと歌謡曲の情感をひとりの歌手の中で自然につないでみせた存在として、伊東ゆかりの名前はやはり大きい。少女歌手のイメージだけで片づけるには惜しい、和製ポップスの洗練がそこにある。

    1947年4月6日に生まれ、早くから洋楽感覚を身につけた歌手だった

    伊東ゆかりは1947年4月6日生まれ。幼少期から進駐軍キャンプで歌い、1958年に11歳でキングレコードから本格デビューした。日本のポップスがまだ戦後の歌謡曲と海外音楽の影響のあいだで形を探っていた時代に、伊東ゆかりは英語曲のカバーや洋楽的なフィーリングを自然に吸収した歌手として頭角を現す。やがて中尾ミエ、園まりと並ぶ“スパーク3人娘”の一人として広く知られ、テレビ番組への出演を通じて、お茶の間に新しいポップス感覚を届ける存在になっていった。

    「小指の想い出」以後、和製ポップスと歌謡曲の橋渡し役になった

    伊東ゆかりの重要さは、海外ポップスの雰囲気を持ち込みながら、それを日本語の歌としてしっかり定着させた点にある。1967年の「小指の想い出」が大ヒットし、続く「恋のしずく」などでも存在感を示したことで、単なる洋楽カバーの上手い歌手ではなく、日本独自のポップ歌謡を体現するシンガーとして評価を固めた。さらに1970年代後半には『サウンド・イン”S”』の司会を務め、“大人の歌手”として再評価される。若さや流行だけで消費されず、スタンダードを歌える表現者へと移っていった流れは、日本の女性ポップシンガー像の成熟そのものでもあった。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは「小指の想い出」。1960年代歌謡の親しみやすさの中に、声のニュアンスやフレージングの巧さがはっきりと刻まれている。もう1曲挙げるなら「恋のしずく」。歌謡曲の王道にありながら、過剰に演歌へ寄らない都会的な手触りがあって、当時の“和製ポップス”という言葉の意味がよくわかる。4月6日は、伊東ゆかりを昭和のスターとして懐かしむだけでなく、日本のポップスが洗練されていく過程を聴き直す日にしたい。

  • 3月30日は、島倉千代子の誕生日から歌謡曲の王道を聴きなおす

    3月30日は、島倉千代子の誕生日から歌謡曲の王道を聴きなおす

    3月30日は、島倉千代子の誕生日。昭和歌謡を語るとき、その名は美空ひばりや都はるみと並ぶ大きな存在として挙がる。デビュー曲『この世の花』から『東京だョおっ母さん』、さらに晩年まで歌い継がれた『人生いろいろ』までをたどると、日本の大衆歌謡がどんなふうに時代と寄り添ってきたのかがよく見えてくる。

    1938年3月30日生まれ、戦後歌謡のスターとして駆け上がった

    島倉千代子は1938年3月30日生まれ。1954年にコロムビア全国歌謡コンクールで優勝し、翌1955年に本名名義で歌手デビューした。デビュー曲『この世の花』は大きなヒットとなり、一気に人気歌手の仲間入りを果たす。さらに1957年には『東京だョおっ母さん』、1958年には『からたち日記』が広く支持され、戦後の復興期から高度成長へ向かう時代の空気と重なるように、島倉の歌は全国へ浸透していった。親しみやすさと品の良さを併せ持つ歌声は、当時の歌謡曲の王道を体現するものだった。

    紅白の常連から『人生いろいろ』まで、長く愛された歌の力

    島倉千代子のすごさは、一時代の流行で終わらなかった点にある。1957年にNHK紅白歌合戦へ初出場して以降、長く国民的歌手として親しまれ、1980年代に入っても存在感を失わなかった。1987年発表の『人生いろいろ』は、島倉にとってオリコン上で最大のヒットとなった代表曲で、キャリア後期に改めて世代を超える支持を集めた作品として知られる。初期の抒情的な歌謡曲から後年の人生をにじませる表現まで、同じ歌手の中に昭和歌謡の厚みそのものが宿っていたと感じさせる。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは『この世の花』でスター誕生の瞬間を確かめたい。続けて『東京だョおっ母さん』を聴けば、東京という都市への憧れや家族への情感が、なぜあれほど多くの人に届いたのかが見えてくるはずだ。そこから『からたち日記』や『人生いろいろ』まで進むと、島倉千代子が単なる懐メロの存在ではなく、長い時間を生きる日本の歌そのものだったことが実感できる。3月30日は、その声の強さとやさしさを改めて味わいたい日だ。

  • 3月23日は、森山加代子の誕生日から日本のカバーポップス黄金期をたどる

    3月23日は、森山加代子の誕生日から日本のカバーポップス黄金期をたどる

    3月23日は、森山加代子の誕生日。戦後の日本のポップスがまだ洋楽カバーを大きな入口にしていた時代を振り返ると、森山加代子の存在は欠かせない。1960年の「月影のナポリ」で鮮烈に登場し、その後の「白い蝶のサンバ」へつながる歩みは、日本の歌謡ポップがどのように大衆へ広がったかを映している。

    1940年3月23日生まれ、1960年「月影のナポリ」で一気にブレイク

    森山加代子は1940年3月23日、北海道函館市生まれの歌手。大きな転機は1960年6月、イタリアの歌手ミーナの「月影のナポリ」を日本語カバーした同名シングルでデビューしたことだった。この曲は当時50万枚を売り上げる大ヒットとなり、森山加代子はデビュー年にNHK紅白歌合戦へ初出場するという異例の速さで全国区の存在になる。ここで重要なのは、ただ洋楽をなぞったのではなく、海外ポップスの軽快さを日本の歌謡市場の中に自然に着地させたことだ。日本の大衆音楽が国際的な流行を取り込みながら独自の歌文化を育てていく、その初期の勢いを森山加代子は体現していた。

    「白い蝶のサンバ」まで続く、親しみやすい歌謡ポップの強さ

    森山加代子を語るとき、「月影のナポリ」だけでは足りない。1970年の「白い蝶のサンバ」もまた、彼女の代表曲として長く記憶されている一曲だ。60年代の洋楽カバー時代を経たあとも、森山加代子は親しみやすく華やかな歌唱で広い層に届く歌を残した。ここに彼女の大きさがある。カバーポップスの担い手として登場しながら、最終的には日本の歌謡ポップそのものの記憶に残る存在になったことだ。戦後日本の音楽史を見れば、洋楽受容から国産ポップスの成熟へ向かう流れがあるが、森山加代子はその橋渡し役の一人だったと言える。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは「月影のナポリ」で1960年前後の日本に広がったカバーポップスの空気を味わいたい。軽やかなメロディと親しみやすい日本語の響きが、当時の新しさをよく伝えてくれる。続けて「白い蝶のサンバ」を聴けば、森山加代子が一過性のブームではなく、時代を越えて残る歌を持った歌手だったことがわかる。3月23日は、日本のポップスが海外の流行を自分たちの歌に変えていった、その面白さを改めて確かめる日にしたい。

  • 3月14日は、五木ひろしの誕生日から歌謡曲と演歌の越境をたどる

    3月14日は、五木ひろしの誕生日から歌謡曲と演歌の越境をたどる

    3月14日は、五木ひろしの誕生日。歌謡曲と演歌の境界がいまよりずっとしなやかだった時代、その両方の文脈で長く第一線を走り続けた存在をたどると、日本の大衆音楽が持っていた幅の広さがよく見えてくる。

    3月14日に生まれた五木ひろしという存在

    五木ひろしは1948年3月14日、福井県生まれの歌手。1960年代後半から活動を始め、1971年の「よこはま・たそがれ」で大きな成功を収めた。その後も「夜空」「千曲川」「契り」などの代表曲を重ね、長年にわたり日本の歌謡界を支えてきた。演歌のスターとして語られることが多い一方で、初期のヒット曲群を聴くと、都市的なムード歌謡や歌謡ポップスに近い手触りも強い。だからこそ五木ひろしの誕生日は、演歌という一語では括り切れない日本の大衆歌謡の広がりを聴き直すきっかけになる。

    歌謡曲と演歌のあいだを行き来したヒット曲の強さ

    「よこはま・たそがれ」は1971年の大ヒットで、港町の情景と失恋の余韻を濃く描きながら、メロディ運びには歌謡曲らしい親しみやすさがある。その後の「夜空」や「千曲川」では、より演歌的な情感とスケール感が強まり、1982年の「契り」は日本レコード大賞も受賞した。五木ひろしの歩みの面白さは、単にヒットを連ねたことだけではない。高度成長期以後の日本で、大衆音楽がテレビ、レコード、カラオケ文化と結びつきながら広がっていく過程で、歌謡曲の開放性と演歌の持続力の両方を一人の歌手が背負っていたところにある。

    今日聴くなら

    今日まず聴きたいのは「よこはま・たそがれ」。五木ひろしの名が全国区になった決定打であり、歌謡曲としての耳なじみの良さと情景描写の巧さがよくわかる。もう一曲選ぶなら「契り」。円熟した歌唱と演歌ならではのドラマ性が結びついた代表作で、1980年代の大衆歌謡が持っていた強度を実感できる。3月14日は、五木ひろしの誕生日を入り口に、歌謡曲と演歌が地続きだった時代の豊かさを味わいたい。