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  • 5月12日は、奥田民生が日本のロックに持ち込んだ肩の力の抜けた強さを聴き返したい

    5月12日は、奥田民生が日本のロックに持ち込んだ肩の力の抜けた強さを聴き返したい

    5月12日は、奥田民生の誕生日。日本のロックやJ-POPを振り返ると、技巧や大げさな演出で押し切るのではなく、肩の力が抜けたまま強く響く表現がある。UNICORNでのバンドブーム、ソロでの独自の歌世界、さらにPUFFYのプロデュースまで、奥田民生の仕事は“気負わないのに残る”日本語ポップスの作法をかなり広い範囲に残してきた。

    1965年5月12日、奥田民生が生まれる

    奥田民生は1965年5月12日、広島県広島市生まれ。1987年にUNICORNのメンバーとしてメジャーデビューし、1989年の「大迷惑」をきっかけにバンドは一気にブレイクした。「働く男」「雪が降る町」「すばらしい日々」など、ユーモアと哀愁が同居する楽曲群は、当時のバンドブームの中でも独特の存在感を放っていた。1993年のバンド解散後は、1994年に「愛のために」でソロ活動を開始。以後、「イージュー★ライダー」「さすらい」などを発表し、バンド時代とは別の角度から、日本語ロックの自由さを更新していった。

    肩の力を抜いたまま届く、という発明

    奥田民生の面白さは、力んでいないように見えるのに、曲としては驚くほど芯が強いところにある。UNICORNでは脱力した笑いと鋭い観察眼を同居させ、ソロでは生活の手触りを残したまま、ロードムービーのように景色が流れる歌を書いてきた。さらに1996年にはPUFFYをプロデュースし、「アジアの純真」「これが私の生きる道」などで、90年代J-POPの空気を大きく変える仕事も成し遂げている。ロックとポップ、作り込みと抜け感、そのあいだを軽やかに往復できること自体が、奥田民生の日本音楽史的な価値だと言っていい。

    今日聴くなら

    まずはUNICORNの「すばらしい日々」。明るさだけではない余韻の深さに、彼のメロディメーカーとしての強さがよく出ている。そこからソロの「イージュー★ライダー」や「さすらい」を続けて聴くと、移動感や生活感をそのまま歌にしてしまう奥田民生らしさが見えてくるはずだ。さらにPUFFYの初期曲まで広げれば、歌う人が変わってもなお残る“民生印”の輪郭も楽しめる。5月12日は、日本のポップスを少しだけ自由にした人の仕事をまとめて聴き返したい。

  • 5月11日は、泉谷しげるの「春夏秋冬」が日本の歌に残したむき出しの体温を思い出したい

    5月11日は、泉谷しげるの「春夏秋冬」が日本の歌に残したむき出しの体温を思い出したい

    5月11日は、泉谷しげるの誕生日。日本のフォークやロックを振り返ると、上手さや整い方より先に、感情のざらつきそのものが届いてくる歌がある。泉谷しげるの代表曲「春夏秋冬」はまさにそういう一曲で、人生の不器用さややるせなさを、きれいに整理せずそのまま言葉に押し込んだ、日本語の歌としてかなり特別な存在だった。

    1948年5月11日、泉谷しげるが生まれる

    泉谷しげるは1948年5月11日生まれ。1971年にライブ・アルバム『泉谷しげる登場』でデビューし、1972年にはアルバム『春夏秋冬』を発表した。同作のタイトル曲「春夏秋冬」は、のちに泉谷の最大のヒット曲であり代表曲として広く知られるようになる。激しい物言いとむき出しの声で語られることの多い人だが、その根っこにあるのは、怒りだけではなく弱さや迷いまで抱えたまま歌う姿勢だ。だからこそ、ただ荒っぽいだけでは終わらず、聴く側の生活感に深く入り込んでくる。

    「春夏秋冬」が日本の歌に残したもの

    「春夏秋冬」は1972年に発表され、同年には日比谷野外音楽堂でのライブ音源がシングル化された。季節の移ろいを借りながら、青春の光だけでなく取り返しのつかなさや所在なさまで歌い込んだこの曲は、日本のフォークの名曲として長く歌い継がれてきた。福山雅治、松山千春、和田アキ子、さだまさしらにカバーされていることからもわかるように、この曲の強さは時代や歌い手を越えて残る。言葉の並びは朴訥でも、感情の芯がぶれない。日本語の歌が“うまく説明する”より先に“生き方ごと鳴ってしまう”瞬間を示した一曲として、いま聴いても鮮烈だ。

    今日聴くなら

    まずはオリジナルの「春夏秋冬」を聴きたい。整った歌唱ではなく、言葉がこぼれ落ちそうな切迫感ごと味わうと、この曲が単なる懐メロではないことがよくわかる。そこからアルバム『春夏秋冬』や初期作をたどれば、70年代日本語フォークが持っていた生々しさと、泉谷しげる特有の不機嫌なやさしさが見えてくるはずだ。5月11日は、泉谷しげるを“激しい人”としてだけでなく、日本の歌にむき出しの体温を残した書き手として聴き返したい。

  • 5月10日は、Mr.Childrenの原点『EVERYTHING』からJ-POPの大きな物語が始まった日

    5月10日は、Mr.Childrenの原点『EVERYTHING』からJ-POPの大きな物語が始まった日

    5月10日は、Mr.Childrenがミニアルバム『EVERYTHING』を世に送り出した日です。1990年代以降のJ-POPを語るうえで欠かせないバンドの出発点をたどると、後年の巨大な成功だけでは見えない初期衝動の輪郭が浮かび上がります。

    Mr.Childrenのメジャー初期を告げた『EVERYTHING』

    TOY’S FACTORYのディスコグラフィーによれば、『EVERYTHING』の発売日は1992年5月10日。収録曲には「君がいた夏」「ロード・アイ・ミス・ユー」「Mr.Shining Moon」などが並び、のちに国民的バンドへ成長していくMr.Childrenの原型が、この時点ですでに刻まれていました。まだ荒削りながら、桜井和寿のメロディ感覚と、バンドとしての瑞々しい一体感が同居しているのがこの作品の面白さです。大ヒット期の洗練とは違う、青年バンドらしいまっすぐな熱量が詰まっています。

    のちのJ-POPを変える感性は、すでにここにあった

    『EVERYTHING』は、売上記録やスタジアム規模のライブより前のMr.Childrenを知るための重要な一枚です。後年の代表曲で広く共有されることになる、日常の揺らぎをすくい上げる言葉選び、叙情とポップネスを両立させる曲作り、その萌芽がすでに感じられます。90年代J-POPが「大衆性」と「個人的な感情表現」を高いレベルで両立していく流れのなかで、Mr.Childrenが果たした役割は非常に大きく、その長い物語の最初のページとして5月10日の『EVERYTHING』は見逃せません。

    今日聴くなら

    まずは「君がいた夏」で、初期Mr.Children特有の透明感を味わいたいところです。さらにアルバム全体を通して聴くと、後年の名曲群へつながるメロディの癖やバンドの呼吸が見えてきます。完成されたベスト盤ではなく、あえて『EVERYTHING』から入ることで、Mr.Childrenという存在がどう始まり、なぜ長く愛されるのかを実感できるはずです。

  • 5月9日は、平原綾香の「Jupiter」がJ-POPに持ち込んだ祈りのスケールを思い出したい

    5月9日は、平原綾香の「Jupiter」がJ-POPに持ち込んだ祈りのスケールを思い出したい

    5月9日は、平原綾香の誕生日。2000年代のJ-POPを振り返ると、クラシック由来の大きな旋律をここまで自然に“自分の歌”として定着させたデビューはそう多くない。代表曲「Jupiter」は大仰なだけのバラードではなく、祈りのようなスケール感と日常の感情を同じ地平に置いた、日本のポップス史でもかなり特別な一曲だった。

    1984年5月9日、平原綾香が生まれる

    平原綾香は1984年5月9日、東京都生まれ。サックス奏者の平原まことを父に持ち、自身も学生時代からサックスを学んだ。音楽大学でジャズを学びながら表現の基礎を磨き、2003年12月17日にシングル「Jupiter」でデビューする。ホルストの組曲「惑星」から「木星」の旋律を下敷きにしたこの曲は、クラシックの名旋律に日本語のポップソングとしての生命を与えた点で非常にユニークだった。歌唱力だけでなく、旋律の大きさに飲み込まれず、あくまで自分の言葉として届けるスケール感が、デビュー時から際立っていた。

    「Jupiter」が2000年代J-POPに残したもの

    「Jupiter」はテレビドラマ挿入歌としても広く届き、のちにミリオン級の広がりを見せた。大きな編成やクラシカルなイメージを持つ楽曲は、ともすると距離のある“名曲風”になりがちだが、平原綾香の歌はそこに体温を残した。だからこそ、壮大なのに説教くさくなく、励ましなのに押しつけがましくない。2000年代以降のJ-POPで、スケールの大きいバラードやクロスオーバー作品が受け入れられる土壌を考えると、「Jupiter」が果たした役割はかなり大きい。クラシック、ポップス、歌謡性の境界をなめらかにつないだ功績は、今あらためて聴いても新鮮だ。

    今日聴くなら

    まずはもちろん「Jupiter」。何度も耳にした曲でも、旋律の運びと息遣いを意識して聴くと、単なるヒット曲では終わらない理由が見えてくる。そこからデビューアルバム『ODYSSEY』へ進めば、壮大さだけではない繊細な表現の幅も感じられるはずだ。5月9日は、平原綾香を“あの名曲の人”としてではなく、2000年代J-POPに祈りのスケールを持ち込んだシンガーとして聴き返したい。

  • 5月8日は、中原めいこが80年代ポップスに残した南国の魔法を聴き返したい

    5月8日は、中原めいこが80年代ポップスに残した南国の魔法を聴き返したい

    5月8日は、中原めいこの誕生日。1980年代の日本ポップスを振り返ると、『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』の一撃で名前を刻んだ人、というだけでは少し足りない。ラテン、ディスコ、AOR、歌謡曲の大衆性を自然につなぎ、あとから振り返るとJ-POPの器用さを先回りしていた書き手として聴き直したくなる。

    1959年5月8日、中原めいこが生まれる

    中原めいこは1959年5月8日、千葉県四街道市に生まれた。中学生の頃から作曲を始め、ポップス・スクールで音楽を学び、バックコーラスなどの経験も積んだのち、1982年に『今夜だけDANCE・DANCE・DANCE』でデビュー。同年には1stアルバム『COCONUTS HOUSE』も発表している。80年代前半の女性シンガーソングライターが並ぶ時代にあって、自作曲を軸にしながら、最初から都会的でリズム感の強いポップスを鳴らしていたのが中原めいこの個性だった。

    『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』が示した先進性

    中原めいこの代表曲としてまず挙がるのは、1984年4月5日発売の6枚目のシングル『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』だ。カネボウの夏のキャンペーンソングとして広く届いたこの曲は、耳に残るフレーズの強さだけでなく、南国イメージを借りながら歌謡曲とダンス・ポップを接続するセンスが抜群だった。その後も『ロ・ロ・ロ・ロシアン・ルーレット』や『鏡の中のアクトレス』などで、ファンク、シンセポップ、アニメ主題歌的な華やかさまで軽やかに取り込み、80年代J-POPの雑食性を先取りしていたと言える。

    今日聴くなら

    まずはやはり『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』から入りたい。言葉のキャッチーさに耳を奪われるが、実はアレンジやリズムの設計がかなり洗練されている。続けてアルバム『COCONUTS HOUSE』を聴けば、デビュー時点での完成度の高さがわかるし、『鏡の中のアクトレス』まで進めば後年のシティポップ再評価に接続される理由も見えてくる。5月8日は、中原めいこを“夏の一発”ではなく、80年代日本ポップスの発明家として聴き返したい日だ。

  • 5月7日は、青江三奈が歌謡曲に刻んだ“ため息”の色気を聴き返したい

    5月7日は、青江三奈が歌謡曲に刻んだ“ため息”の色気を聴き返したい

    5月7日は、青江三奈の生まれた日。1960年代後半から1970年代にかけての歌謡曲を振り返ると、彼女のハスキーボイスと“ため息”を含んだ歌い方はやはり特別だ。ムード歌謡やブルース歌謡を、お茶の間で共有される大衆音楽へ押し広げた存在として、いま聴き返す意味がある。

    1941年5月7日、青江三奈が生まれる

    青江三奈は1941年5月7日、東京都江東区に生まれた。西武百貨店勤務を経てクラブ歌手となり、「銀巴里」などで歌ったのち、1966年に『恍惚のブルース』でメジャーデビュー。同曲は80万枚を売り上げるヒットとなり、低く艶のある声で歌うブルース演歌の印象を強く残した。さらに1968年には『伊勢佐木町ブルース』が100万枚、『長崎ブルース』が120万枚を記録し、翌1969年の『池袋の夜』は150万枚を売り上げる自身最大のヒットとなる。誕生日からその歩みをたどると、青江三奈は短期間で歌謡界の中心へ駆け上がったことがよくわかる。

    “ため息路線”を歌謡曲の記号にした意義

    青江三奈の面白さは、単にヒット曲が多かったことだけではない。『伊勢佐木町ブルース』冒頭の色っぽい吐息に象徴されるように、声そのもののニュアンスを楽曲の顔にしてしまった点が大きい。同時期の森進一と並んで“ため息路線”と呼ばれたが、その表現は単なる話題作りではなく、街の名前を冠したご当地ソングやブルース歌謡に濃い情感を与えた。1968年には『伊勢佐木町ブルース』で日本レコード大賞歌唱賞、1969年にも『池袋の夜』で同賞を受賞しており、色気やムードが日本の大衆歌謡の一つの様式として定着したことを、青江三奈のヒット史は物語っている。

    今日聴くなら

    まずは『恍惚のブルース』で、青江三奈がデビュー時から完成された個性を持っていたことを確かめたい。続いて『伊勢佐木町ブルース』を聴けば、イントロの吐息からサビまで一気に空気を変える歌の強さがわかるはずだ。さらに『長崎ブルース』や『池袋の夜』まで広げると、地名を背負った歌が単なるご当地ネタではなく、都市の夜の気分そのものを運ぶメディアだったことにも気づく。5月7日は、昭和歌謡の色気がどこから来たのかを耳でたどる日にしたい。

  • 5月5日は、佐藤竹善が磨いたSING LIKE TALKINGの都会的ポップスを聴き返したい

    5月5日は、佐藤竹善が磨いたSING LIKE TALKINGの都会的ポップスを聴き返したい

    5月5日は、SING LIKE TALKINGのフロントマンとして知られる佐藤竹善の誕生日。1980年代後半から1990年代のJ-POPを振り返ると、英語圏AORやソウルの手触りを日本語のポップスとして無理なく鳴らした存在は意外と多くない。その意味で、佐藤竹善の歌声と作曲感覚は、いま聴いてもかなり特別だ。

    1963年5月5日、青森に佐藤竹善が生まれる

    佐藤竹善は1963年5月5日、青森県で生まれた。高校時代から藤田千章、西村智彦らと音楽活動を行い、1985年にバンドの前身となる動きを本格化。1986年にはSING LIKE TALKING名義で「ヤングジャンプ・サウンド・コンテスト ’86」のグランプリを獲得し、1988年9月30日にシングル「Dancin’ With Your Lies」でデビューした。誕生日という個人的な節目から見ても、佐藤竹善の歩みは地方のバンドが都会的な音楽性を磨き上げ、全国区のポップスへ届いていく物語として面白い。

    日本語ポップスにAORとソウルの洗練を持ち込んだ

    SING LIKE TALKINGの大きな魅力は、ただ洋楽志向だったことではなく、その影響を日本語のメロディと歌唱に落とし込んだ点にある。1993年のアルバム『ENCOUNTER』、1994年の『togetherness』はいずれもオリコン1位を記録し、90年代J-POPのど真ん中で独自の上質さを示した。佐藤竹善自身も小田和正や山下達郎のツアーでバックコーラスを務めるなど、ボーカリストとして高く評価されてきた。派手な流行語よりも、音の艶やコーラスワーク、リズムの滑らかさで記憶に残るタイプの音楽が、日本のメインストリームでも成立したことを彼らは証明したと言える。

    今日聴くなら

    今日はまずデビュー曲「Dancin’ With Your Lies」で、当初から完成度の高かったバンド像を確かめたい。そこから『ENCOUNTER』や『togetherness』へ進むと、SING LIKE TALKINGが90年代の日本のポップスにどれだけ都会的な陰影を持ち込んだかがよくわかる。さらに佐藤竹善のソロやSALT&SUGARまで広げれば、歌のうまさだけではない、選曲眼とアンサンブル感覚の鋭さにも気づくはずだ。5月5日は、上質な日本語ポップスを静かに再発見するのに向いた一日である。

  • 5月4日は、菊池桃子が生まれた80年代アイドル歌謡の転換点を振り返る

    5月4日は、菊池桃子が生まれた80年代アイドル歌謡の転換点を振り返る

    5月4日は、菊池桃子の誕生日。1980年代の日本のポップスを振り返るとき、松田聖子や中森明菜のような大スターと並んで、もう少し親しみやすく、日常に近い温度で時代をつかんだ存在として菊池桃子はかなり重要だ。この日をきっかけに、80年代アイドル歌謡がどう広がり、後のJ-POP的な感覚につながっていったのかをたどってみたい。

    1968年5月4日、菊池桃子が東京都品川区に生まれる

    菊池桃子は1968年5月4日、東京都品川区に生まれた。1983年に芸能活動を始め、1984年3月公開の映画『パンツの穴』で注目を集め、同年4月21日にシングル『青春のいじわる』で歌手デビューする。さらに同年には『SUMMER EYES』『雪にかいたLOVE LETTER』と立て続けに作品を発表し、日本レコード大賞新人賞も受賞した。誕生日そのものは静かな節目でも、80年代半ばのアイドル文化が一気に熱を帯びていく流れの中で見ると、菊池桃子の登場はかなり象徴的だったと言える。

    “親しみやすさ”で80年代アイドル歌謡の空気を変えた

    菊池桃子の魅力は、スター性を押しつけるよりも、どこか身近に感じられる柔らかさにあった。1984年のファーストアルバム『OCEAN SIDE』はオリコン1位を記録し、1985年2月発売の『卒業-GRADUATION-』から1987年3月発売の『アイドルを探せ』まで、シングル7作連続でオリコン1位を獲得している。この流れは、テレビ、映画、雑誌、CMが密接につながっていた80年代メディア文化の中で、アイドル歌手が単なる一時的な人気者ではなく、時代の空気そのものを背負う存在になっていったことを示している。後年シティポップ文脈でも再評価される作品が多いのも、彼女の音楽が時代性だけでなく、きちんと楽曲の質でも支持されていたからだ。

    今日聴くなら

    今日はまず『青春のいじわる』で、デビュー当時の初々しさと80年代アイドル歌謡の明るさを味わいたい。その次に『卒業-GRADUATION-』を聴くと、菊池桃子が単なる新人から時代を代表するポップ・アイコンへ変わっていく瞬間がよくわかる。さらにアルバム『OCEAN SIDE』まで広げると、アイドル作品でありながら、いま聴いても手触りのいいアレンジや空気感が見えてくる。5月4日は、80年代の日本ポップスが持っていた瑞々しさを確かめるのにちょうどいい日だ。

  • 5月3日は、橋幸夫が生まれた昭和歌謡の節目をたどる

    5月3日は、橋幸夫が生まれた昭和歌謡の節目をたどる

    5月3日は、橋幸夫の誕生日。1960年代の歌謡曲を語るとき、舟木一夫、西郷輝彦と並ぶ「御三家」の存在はやはり外せないが、その中でも橋幸夫は、股旅ものの親しみやすさと、時代の変化に合わせて歌謡曲を更新していく柔軟さの両方を持っていた。この日をきっかけに、昭和歌謡が大衆文化の真ん中で鳴っていた時代の熱をたどってみたい。

    1943年5月3日、橋幸夫が東京に生まれる

    橋幸夫は1943年5月3日、東京府東京市荒川区に生まれた。1960年7月5日には「潮来笠」でデビューし、第2回日本レコード大賞新人賞を受賞。さらに同曲でその年のNHK紅白歌合戦にも初出場を果たしている。デビュー初期は「沓掛時次郎」「中山七里」など、いわゆる股旅ものの歌謡曲で広く人気を集め、1960年代前半の歌謡界で一気に存在感を高めていった。誕生日そのものは静かな節目でも、日本の大衆歌謡史の流れで見ると、のちに長く続く国民的人気の起点につながる日だと言える。

    「潮来笠」から「いつでも夢を」へ、昭和歌謡の幅を広げた存在

    橋幸夫の面白さは、ひとつの型に閉じなかったところにある。股旅もののイメージが強い一方で、1962年には吉永小百合とのデュエット曲「いつでも夢を」を発表し、第4回日本レコード大賞を受賞。さらに1966年には「霧氷」でも日本レコード大賞を受賞している。泥くささや庶民性を感じさせる楽曲から、都会的で洗練された歌謡曲まで歌いこなしたことで、橋幸夫は単なるスター歌手ではなく、昭和歌謡そのものの懐の深さを体現する存在になった。のちに「御三家」と呼ばれる人気も含め、60年代の歌謡界がどう大衆に開かれていったかを考えるうえで、橋幸夫の歩みはかなり重要だ。

    今日聴くなら

    今日はまずデビュー曲「潮来笠」を聴いて、言葉の運び方や節回しの強さを味わいたい。そのあとに「いつでも夢を」をつなげると、橋幸夫という歌手が持っていた柔らかさや親しみやすさがよく見えてくる。さらに「霧氷」までたどれば、同じ歌手が時代の空気に合わせて表情を変えながら長く第一線に立ち続けたことも実感できるはずだ。5月3日は、昭和歌謡の王道がどう育っていったかを確かめるのにちょうどいい日になる。

  • 5月2日は、鮎川誠が生まれためんたいロックの源流を振り返る

    5月2日は、鮎川誠が生まれためんたいロックの源流を振り返る

    5月2日は、鮎川誠の誕生日。サンハウス、そしてシーナ&ザ・ロケッツで鳴らされたあのギターは、日本のロックが英米の模倣だけでは終わらず、土地の匂いをまとったまま前に進めることを示した。福岡から立ち上がった荒っぽさと品の良さが同居するサウンドの源流を、この日に改めてたどってみたい。

    1948年5月2日、鮎川誠が福岡県久留米市に生まれる

    鮎川誠は1948年5月2日、福岡県久留米市生まれ。のちに1970年にサンハウスを結成し、1975年にメジャー・デビュー、さらに1978年にはシーナ&ザ・ロケッツを結成した。福岡のシーンから出てきた彼のギターは、ブルースやロックンロールへの深い愛情を土台にしながら、湿度を含んだ日本語ロックの手触りへつながっていく。1979年にはシーナ&ザ・ロケッツの「ユー・メイ・ドリーム」が広く知られ、鮎川の名前は“めんたいロック”を語るうえで欠かせないものになった。誕生日そのものは一見静かな節目だが、日本のロック史では、この日に生まれた人物が後の景色をかなり変えたと言っていい。

    日本のロックを“輸入文化の写し”で終わらせなかった存在

    鮎川誠の重要さは、単に名ギタリストだったことだけではない。サンハウスでの剥き出しの演奏、シーナ&ザ・ロケッツでのポップさと爆発力の両立によって、日本のロックがもっと生活感のある言葉と身体感覚を持てることを証明したところにある。さらにYMO作品やライブにも関わったことで、パンク、ロックンロール、ニューウェイヴがゆるやかにつながる80年前後の日本の音楽地図にも姿を残した。東京発の洗練とは別の文脈から中心へ食い込んだ鮎川の歩みは、地方からでも独自の美学で全国区になれるという希望そのものでもあった。

    今日聴くなら

    今日はまずサンハウスの荒々しさに触れてから、シーナ&ザ・ロケッツの「ユー・メイ・ドリーム」やアルバム『真空パック』へ進みたい。ギターの切れ味だけでなく、バンド全体の重心の低さや言葉の乗り方に耳を向けると、鮎川誠がただ“かっこいいロックの人”で終わらない理由がよくわかるはずだ。5月2日は、日本のロックがどこから熱を帯びたのかを思い出す日にちょうどいい。