タグ: 日本音楽史

  • 5月18日は、槇原敬之のソングライティングがJ-POPの標準語になったことを思い出す

    5月18日は、槇原敬之のソングライティングがJ-POPの標準語になったことを思い出す

    5月18日は、J-POPの中で「ふつうの言葉がそのまま歌になる瞬間」を思い出したくなる日だ。大げさな比喩に頼らず、日常の温度をそのままメロディに乗せて、多くの人の気分の置き場所を作ってきた書き手がいる。1969年5月18日生まれの槇原敬之は、その代表格として1990年代以降の日本のポップスに大きな足跡を残した。

    1969年5月18日、槇原敬之が生まれる

    槇原敬之は1969年5月18日、大阪府高槻市生まれ。1990年にシングル「NG」、アルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でデビューし、翌1991年の「どんなときも。」で一気に広く知られる存在になった。この曲は映画主題歌としても浸透し、ミリオンヒット級の代表作となる。その後も「もう恋なんてしない」「SPY」「遠く遠く」「世界に一つだけの花」など、自身の歌手活動だけでなく提供曲を通じても強い存在感を発揮した。誕生日である5月18日は、彼のキャリア全体を振り返る入り口としてちょうどいい。

    日常語をポップスの芯にしたソングライティング

    槇原敬之の重要さは、90年代J-POPの大ヒットを支えたことだけではない。彼の歌詞は、劇的な事件よりも、ためらい、後悔、励まし、言い切れない優しさのような日常の感情を、会話に近い言葉で丁寧にすくい上げるところに特徴がある。その一方で、メロディは親しみやすく、それでいて転調やコード進行には確かな工夫があり、何度聴いても平板にならない。シンガーソングライターとしての内省性と、広く共有されるポップスとしての開放感を両立させたことで、槇原の作品は「個人の歌」でありながら「みんなの歌」として機能した。そうした書き方は、以後のJ-POPにおけるひとつの標準語になったと言っていい。

    今日聴くなら

    今日はまず「どんなときも。」を聴きたい。自分を励ます言葉が押しつけにならず、ちゃんと歌として残る、そのバランス感覚がよくわかる。次に「もう恋なんてしない」を流すと、失恋の情けなさとユーモアが同居する槇原敬之らしさがはっきり見える。さらに、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」までつなげると、個人の心情を歌ってきた書き手が、時代全体に共有されるメッセージをどう作ったのかも感じ取れるはずだ。5月18日は、槇原敬之の歌がJ-POPの言葉遣いそのものを広げたことを改めて確かめたい日である。

  • 5月17日は、Every Little Thing初期の輪郭を作った五十嵐充の仕事を聴き返したい

    5月17日は、Every Little Thing初期の輪郭を作った五十嵐充の仕事を聴き返したい

    5月17日は、Every Little Thingの初期サウンドを思い出すのにちょうどいい日だ。90年代後半のJ-POPを振り返ると、歌そのものの強さだけでなく、打ち込みと生楽器のバランス、切なさを前に押し出すコード進行、そして耳に残るサビの設計まで含めて時代の空気を作った制作者がいる。その代表例のひとりが、5月17日生まれの五十嵐充である。

    1969年5月17日、五十嵐充が生まれる

    五十嵐充は1969年5月17日、神奈川県横浜市生まれ。幼少期からエレクトーンに親しみ、のちにギターも経験しながら音楽の基礎を広げていった。1990年代前半にはエイベックス周辺で制作の経験を積み、1995年には後にEvery Little Thingのボーカルとなる持田香織の声を使ったデモ制作を担当。その流れから、1996年8月に持田香織、伊藤一朗とともにEvery Little Thingとしてシングル「Feel My Heart」でデビューする。グループではリーダー兼サウンド・プロデューサーとして、初期の大半の楽曲で作詞・作曲・編曲を担ったことが大きい。

    90年代後半J-POPの手触りを決めたプロデュース感覚

    五十嵐充の仕事が日本音楽史の中で重要なのは、Every Little Thingを単なるヒットユニットで終わらせなかった点にある。「Dear My Friend」「For the moment」「出逢った頃のように」「Time goes by」などに通じるのは、当時のエイベックスらしい打ち込みの鮮やかさと、歌謡曲的な哀感を両立させる設計だ。派手なテンポ感を持つ曲でもメロディは過剰に軽くならず、逆にバラードでは余白を残して歌を立たせる。そのバランス感覚が、TK以後のJ-POPが多様化していく局面でELTを独自の場所に押し上げた。2000年3月に本人は作曲・編曲・プロデュース業へ専念するためグループを離れるが、初期ELTの輪郭は今なお五十嵐の仕事として聴き取れる。

    今日聴くなら

    今日はまずデビュー曲「Feel My Heart」から入るのがいい。90年代後半J-POPのスピード感ときらめきが凝縮されている。次に「Time goes by」を聴くと、五十嵐充が単なる打ち込み職人ではなく、長く残るメロディを書く人だったことがはっきりわかる。さらに「出逢った頃のように」を並べれば、ポップさと切なさを同時に走らせる手腕も見えてくる。5月17日は、Every Little Thing初期の名曲群を通して、五十嵐充が90年代J-POPに刻んだ質感そのものを聴き返したい日だ。

  • 5月16日は、ささきいさおがアニメソングを主役の歌に押し上げた歩みを思い出す

    5月16日は、ささきいさおがアニメソングを主役の歌に押し上げた歩みを思い出す

    5月16日は、ささきいさおの誕生日。日本のポップカルチャーを振り返ると、アニメソングが「子ども向けの添え物」ではなく、作品の世界観そのものを背負う歌として広く届くようになった転換点がいくつもある。その流れの中心にいたひとりが、ロカビリー歌手として出発し、俳優や声優も経験しながら、アニメソングの代表的な声になっていったささきいさおだ。

    1942年5月16日、ささきいさおが生まれる

    ささきいさおは1942年5月16日、東京都目黒区生まれ。1960年に日本コロムビアから「本命はお前だ」でロカビリー歌手としてデビューし、「和製プレスリー」の呼び名でも知られた。その後は俳優や吹き替え、声優の仕事も重ね、1972年には『科学忍者隊ガッチャマン』でコンドルのジョー役を担当。さらに1973年、『新造人間キャシャーン』の主題歌歌手に抜擢されたことを機に、アニメソング歌手としての存在感を一気に強めていく。もともとの歌手経験に、役者としての表現力と声優としての説得力が重なったことが、この人の強さだった。

    『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』が示したスケール

    ささきいさおの名前を日本の音楽史に刻んだ決定打として、やはり『宇宙戦艦ヤマト』と『銀河鉄道999』は外せない。どちらも単なる主題歌ヒットにとどまらず、作品の壮大さやドラマ性を、歌そのものが先導していく感覚を多くのリスナーに植えつけた。低く太い声でまっすぐ押し出す歌唱は、当時のアニメソングのイメージを拡張し、子どもだけでなく大人の耳にも届く“作品音楽”としての格を与えたと言っていい。水木一郎、堀江美都子らと並んで黎明期を支えた功績は大きいが、その中でもささきいさおは、ロマンや哀愁、英雄性を一曲の中で同居させる力が際立っていた。

    今日聴くなら

    今日はまず「宇宙戦艦ヤマト」を聴きたい。イントロの時点で物語が始まるあの高揚感は、今聴いても圧倒的だ。続けて「銀河鉄道999」に進むと、広い宇宙へ向かう憧れや寂しさまで歌に乗せられる人だったことがよくわかる。もしもう一歩たどるなら、『新造人間キャシャーン』の主題歌も面白い。5月16日は、アニメソングが日本の大衆音楽の中で確かな居場所を持つまでの歩みを、ささきいさおの声から聴き直したい日だ。

  • 4月24日は、森田童子の歌が今も刺さる理由をあらためて辿る

    4月24日は、森田童子の歌が今も刺さる理由をあらためて辿る

    4月24日は、森田童子の命日。1970年代の日本のフォークが社会の熱気から少し距離を取り、より私的な孤独へ沈んでいった流れのなかで、森田童子の歌は特別な暗さと親密さを残した。表立って多作な人ではなかったのに、今も名前が消えないのは、その歌が時代の気分ではなく、聴き手の心の深い場所に触れていたからだ。

    1983年に表舞台を去っても、作品は消えなかった

    森田童子は1975年にデビューし、1983年の活動休止までにアルバム7枚、シングル4枚を発表したシンガーソングライターだ。サングラス姿と寡黙なイメージでも知られ、私生活をほとんど明かさないまま、80年代前半に表舞台から姿を消した。その後も作品はひそかに聴き継がれ、1993年には「ぼくたちの失敗」がテレビドラマ『高校教師』の主題歌として再び大きな注目を集める。4月24日は、2018年にその生涯を閉じた日として記憶されているが、彼女の音楽はそこで終わったわけではなかった。

    孤独を誇張せずに歌ったから、時代を越えた

    森田童子の重要さは、青春の挫折や痛みを“文学的な飾り”として処理しなかったところにある。細い声と簡素な編成、そして言い切りすぎない日本語は、聴き手に解釈の余白を残した。だからこそ90年代のドラマ文脈でも、2020年代のリスナーにとっても、ただの懐古ではなく現在進行形の歌として届く。社会を大きく語るのではなく、誰にも言えない感情の置き場所を示したことが、森田童子を日本音楽史のなかで特異な存在にしている。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはやはり「ぼくたちの失敗」から入りたい。彼女の歌の核にある、弱さを弱さのまま差し出す感覚がもっとも広く伝わる一曲だ。そのあとで『ラスト・ワルツ』や『東京カテドラル聖マリア大聖堂録音盤』へ進むと、スタジオ録音だけでは見えにくい張りつめた空気や、静かな熱量まで感じられる。4月24日は、森田童子の歌が“暗い名曲”で終わらず、日本語の内省的なポップスの基準を更新したことを聴き直す日にしたい。

  • 4月19日は、日本の洋楽受容を切り開いた幸田延の誕生日を振り返る

    4月19日は、日本の洋楽受容を切り開いた幸田延の誕生日を振り返る

    4月19日は、幸田延の誕生日。ポップスやロックの記念日ではなくても、日本の音楽史を広く見渡すならこの人はかなり重要だ。西洋音楽を「学ぶもの」から「日本で育てるもの」へ変えていく流れの中で、演奏家、作曲家、教育者として足場を築いた存在だった。

    明治のはじまりに生まれ、日本の洋楽教育の最前線へ進んだ

    幸田延は1870年4月19日生まれ。Wikipediaおよび同項目が参照する研究資料によれば、幼い頃に長唄や箏曲に親しみ、その後、文部省音楽取調掛でピアノとヴァイオリンを本格的に学んだ。さらに1889年には文部省派遣留学生としてボストンのニューイングランド音楽院へ渡り、その後はウィーンでも研鑽を積んでいる。明治初期の日本で、女性がここまで本格的に西洋音楽を学び、海外で専門教育を受けたこと自体がすでに画期的だ。幸田延の歩みは、日本が西洋音楽を制度として受け入れ始めた時代の象徴でもある。

    作曲家としても教育者としても、日本音楽史の始点に立っていた

    幸田延の名前が特に重要なのは、演奏だけでなく、日本人による初期の本格的クラシック作品を残した点にある。1895年作曲の《ヴァイオリンソナタ 変ホ長調》は、1897年に発表され、日本人による最初期のクラシック作品の一つとして位置づけられている。また帰国後は東京音楽学校で教壇に立ち、瀧廉太郎、三浦環、本居長世、山田耕筰ら後の日本音楽史を語るうえで欠かせない人材を育てた。日本の近代音楽は突然花開いたのではなく、こうした“最初の先生たち”の積み重ねの上にできている。そのことを思い出させてくれるのが幸田延の存在だ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは幸田延の《ヴァイオリンソナタ 変ホ長調》に触れてみたい。完成度の高さ以上に、日本でクラシックを作るという発想そのものがまだ新しかった時代の息遣いが感じられるはずだ。あわせて、彼女が育てた瀧廉太郎の歌曲や山田耕筰の作品へ耳を伸ばすと、日本の洋楽がどう根づいていったのかが一本の線で見えてくる。4月19日は、スター個人の記念日というより、日本の音楽教育と創作の土台がどこから始まったのかをたどる日にしたい。

  • 4月17日は、高見沢俊彦がTHE ALFEEをロックバンドとして研ぎ澄ませた軌跡をたどる

    4月17日は、高見沢俊彦がTHE ALFEEをロックバンドとして研ぎ澄ませた軌跡をたどる

    4月17日は、THE ALFEEの高見沢俊彦の誕生日。長いキャリアのなかで彼は華やかなギター・ヒーローとして語られることが多いが、日本のポップスとロックの間にある壁を少しずつ壊してきたソングライターでもある。THE ALFEEの輪郭を形づくってきた、その仕事を今日は聴き直したい。

    4月17日生まれ、高見沢俊彦がTHE ALFEEの芯になっていくまで

    THE ALFEE Mobileのプロフィールによれば、高見沢俊彦は1954年4月17日生まれ。THE ALFEEは1973年に明治学院大学キャンパスで出会って結成され、翌1974年8月25日にシングル「夏しぐれ」でデビューしている。Wikipediaでも、高見沢は初期からバンドに参加し、のちに多くの楽曲の作詞・作曲を担う中心人物になったことが確認できる。さらにTHE ALFEE公式サイトでは、1979年1月21日に「ラブレター」で再デビューしたことが記されている。初期のフォーク色を通り抜けながら、自分たちの言葉とメロディで進む道をつくっていった過程には、高見沢の粘り強い創作姿勢がはっきり表れている。

    フォークからロックへ、バンドの景色を押し広げた意義

    高見沢の仕事が特別なのは、単に目立つギタリストだったからではない。Wikipediaによれば、1982年にTHE ALFEEは高見沢主導でフォーク路線からロックバンド路線へと舵を切り、彼がリーダーを務めるようになった。その変化の先にあったのが、1983年の大ヒット曲「メリーアン」である。アコースティックな親しみやすさを残しながら、大きな会場で鳴るロックのスケール感へ踏み出したことで、THE ALFEEは歌謡曲ともニューミュージックとも違う独自の立ち位置を獲得した。高見沢のハイトーンボーカル、ドラマチックなメロディ、そしてステージ映えするギターサウンドは、80年代J-ROCKの派手さを先取りしながら、同時に世代を超えて届く大衆性も保っていた。その両立こそが、日本の音楽シーンに残した大きな足跡だと思う。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずはデビュー期の「夏しぐれ」で出発点を確かめたい。そのうえで1979年の「ラブレター」を聴くと、再び前へ進もうとするバンドの意志が見えてくる。そしてやはり外せないのが「メリーアン」。THE ALFEEが一気に国民的な存在へ広がっていく瞬間の勢いが詰まっている。4月17日は、高見沢俊彦という個性の強いプレイヤーを祝う日であると同時に、彼が書き続けてきた曲によってTHE ALFEEがどう進化したのかをたどるのにちょうどいい日だ。

  • 4月16日は、BONNIE PINKが英語詞ポップスの景色を塗り替えた感性をたどる

    4月16日は、BONNIE PINKが英語詞ポップスの景色を塗り替えた感性をたどる

    4月16日は、BONNIE PINKの誕生日。90年代半ば以降のJ-POPが日本語詞の強さを更新していった時代に、彼女は英語と日本語を自然に行き来しながら、都会的でありつつ体温のあるポップスを描いた。海外志向を“背伸び”ではなく自分の言葉として成立させた、その感性を振り返りたい。

    4月16日生まれ、BONNIE PINKが1995年に切り開いた入口

    BONNIE PINKは1973年4月16日生まれ、京都市出身のシンガーソングライター。Wikipediaによれば、大学の文化祭をきっかけに音楽活動が本格化し、1995年9月21日に自身の作詞・作曲によるアルバム『Blue Jam』でデビューした。同作からのシングル「オレンジ」で注目を集め、その後はスウェディッシュ・ポップの名プロデューサー、トーレ・ヨハンソンとも組みながら独自の音像を磨いていく。英語に親しんできた背景をそのまま表現へつなげ、日本のマーケットに合わせて無理に均すのではなく、自分の耳で育てたポップスの感覚を前面に出した点が、当時からかなり新鮮だった。

    英語詞ポップスを日本の主流へ近づけた意義

    彼女の存在が特に大きいのは、英語詞や洋楽的なリズム感を“通好み”に閉じ込めず、日本のポップスとして開いたことにある。Wikipediaでも、1997年の「Heaven’s Kitchen」が30万枚以上を売り上げ、さらに2006年の「A Perfect Sky」が20万枚を超えるヒットになったことが記されている。歌詞が英語だと売れにくいという日本の業界の常識を揺らし、しかもその魅力は単なる語感の良さだけではなかった。柔らかい声、少し影のあるメロディ、洗練されているのに冷たくなりすぎないアレンジ。そのバランス感覚によって、BONNIE PINKはJ-POPと海外ポップスの距離をぐっと縮めた。女性シンガーソングライター像を更新した存在として語られる理由はそこにある。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは代表曲の「Heaven’s Kitchen」。BONNIE PINKの英語感覚とメロディのしなやかさがよくわかる。そのうえで2006年の「A Perfect Sky」へ進むと、彼女のポップネスがより大きなリスナーへ届いた瞬間が見えてくる。デビュー作『Blue Jam』までさかのぼれば、後年の洗練につながる芯の強さも感じられるはずだ。4月16日は、BONNIE PINKが日本のポップスに持ち込んだ“自然体の越境感覚”を聴き直すのにちょうどいい日だ。

  • 4月15日は、坂崎幸之助がフォークとロックをつなぐギターの美学を育てた日をたどる

    4月15日は、坂崎幸之助がフォークとロックをつなぐギターの美学を育てた日をたどる

    4月15日は、THE ALFEEの坂崎幸之助の誕生日。日本のロックがより大きな音へ向かっていった時代に、彼はアコースティックギターを手放さず、フォークの繊細さとバンドのダイナミズムを同時に成立させた。その独特の立ち位置は、日本のポップスにかなり大きな足跡を残している。

    4月15日生まれ、THE ALFEEの出発点を支えた坂崎幸之助

    Wikipedia によれば、坂崎幸之助は1954年4月15日生まれ。高校時代からフォークソング同好会を作るほどギターに熱中し、1972年に桜井賢らのグループ「コンフィデンス」と出会ったことが、のちのTHE ALFEEの母体につながった。さらに大学で高見沢俊彦と出会い、グループはALFIEへ改名。1974年8月25日にシングル「夏しぐれ」でデビューしている。坂崎の面白さは、単なる器用なギタリストではなく、フォーク、ビートルズ、ラジオ文化、話芸まで含めた“音楽の入口”を広く持っていたところにある。彼の誕生日を振り返ることは、その後の日本のポップロックの入口を見直すことでもある。

    爆音の中でアコースティックギターを成立させた意義

    THE ALFEEは1982年以降、いわゆるロックバンド編成へ変化していくが、坂崎はその中でもアコースティックギターを重要な軸として残した。Wikipedia では、大音量のステージでハウリングを抑えながらアコースティックサウンドを成立させるため、ヤマハの技術者と工夫を重ねたことが記されている。これは単なる機材話ではなく、日本のバンド音楽において“フォークの身体性を失わずにロックする”方法を示したということでもある。高見沢の華やかなエレキ、桜井の低音、そして坂崎のエレアコが重なることで、THE ALFEEは歌謡ロックともハードロックとも少し違う独自の輪郭を持った。そのサウンド設計は、後の多くのJ-POPやライブ文化にも通じる感覚だ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは出発点として「夏しぐれ」。そこからTHE ALFEEの代表曲群へ進むと、坂崎幸之助が土台で支えてきたアコースティックの響きが、バンドの景色をどう豊かにしているかがよくわかる。さらに彼が参加したフォーク色の強いセッションやラジオ発の企画に触れると、坂崎が単なるバンドマンではなく、日本の音楽文化をつなぐ媒介者だったことも見えてくる。4月15日は、その柔らかなギターが日本のポップスに与えた広がりを思い出したい日だ。

  • 4月14日は、山口百恵が“花の中三トリオ”から時代の表現者へ踏み出した原点をたどる

    4月14日は、山口百恵が“花の中三トリオ”から時代の表現者へ踏み出した原点をたどる

    4月14日は、山口百恵が映画『としごろ』に出演した日。のちに同名曲で歌手デビューし、“花の中三トリオ”の一角として一気に時代の中心へ進んでいく。その入口になったこの日は、70年代歌謡の空気が大きく動き始めた瞬間として振り返る価値がある。

    4月14日、映画『としごろ』出演から歌手デビューへの流れが始まった

    山口百恵は1972年12月に『スター誕生!』で準優勝し、ホリプロダクションとCBS・ソニーに所属が決まった。Wikipedia では、1973年4月14日に映画『としごろ』へ出演し、5月21日に同名曲でアイドル歌手としてデビューしたことが確認できる。森昌子、桜田淳子と並ぶ“花の中三トリオ”として語られることが多いが、百恵の面白さは、最初から単なる清純派の枠に収まらなかったところにある。デビュー初期の段階で、歌手と映画女優の両方を視野に入れた立ち上がり方をしていたことが、その後の表現の広がりを予感させる。

    『ひと夏の経験』から『横須賀ストーリー』へ、70年代歌謡の輪郭を変えた

    Wikipedia によれば、デビュー曲『としごろ』の後、1974年の『ひと夏の経験』が大ヒットし、山口百恵は一気に国民的な存在になる。さらに同年には映画『伊豆の踊子』に主演し、歌だけでなく映像の世界でも存在感を示した。そして1976年のシングル『横須賀ストーリー』では、阿木燿子・宇崎竜童の作品を歌って新境地を開いている。この流れを追うと、山口百恵は“アイドルとして売れた人”ではなく、歌謡曲の中に成熟や陰影を持ち込み、70年代の日本ポップスの表情そのものを変えていった表現者だったとわかる。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは出発点として『としごろ』。そこから『ひと夏の経験』を聴くと、山口百恵が時代の視線を一気に引き受けていく勢いが伝わる。さらに『横須賀ストーリー』まで進めば、初期のアイドル像から、より深い情感を持つ歌い手へ変化していく軌跡がはっきり見える。4月14日は、その長い飛躍の最初のドアが開いた日として味わいたい。

  • 4月13日は、西城秀樹の誕生日から“スターが日本のライブ像を拡張した時代”をたどる

    4月13日は、西城秀樹の誕生日から“スターが日本のライブ像を拡張した時代”をたどる

    4月13日は、西城秀樹の誕生日。1970年代の日本ポップスを語るとき、彼は単なる人気アイドルでは終わらない。歌謡曲の熱量にロック的な身体性と大舞台のスケール感を持ち込み、“スターの見え方”そのものを更新した存在として振り返りたい日だ。

    4月13日生まれ、1972年3月25日に「恋する季節」でデビューした

    西城秀樹は1955年4月13日生まれ。Wikipedia では、1972年3月25日にRCAレーベルからシングル「恋する季節」で歌手デビューしたことが確認できる。翌1973年には「情熱の嵐」でオリコン週間チャートのベストテン入りを果たし、「ちぎれた愛」では自身初のオリコン1位を獲得した。ここで重要なのは、甘いアイドル像だけではなく、全身を使って歌うダイナミックなパフォーマンスが早い段階から支持されていたことだ。西城秀樹は、歌謡曲の王道路線にいながら、ステージ上ではもっと大きな熱狂を要求するタイプのスターだった。

    スタジアムと武道館が、ポップ・スターの器をさらに広げた

    Wikipedia によれば、1974年8月3日、西城秀樹は大阪球場で日本のソロ歌手として初のスタジアムでのワンマン・コンサートを開催している。さらに1975年11月3日には、日本人ソロ歌手として初の日本武道館公演も実現した。ヒット曲を出すだけではなく、“どこまで大きな空間を熱狂で満たせるか”という次元で日本のショー・ビジネスを押し広げた点が、西城秀樹の歴史的な大きさだと思う。後年のアリーナ級、ドーム級のポップ・ライブを当たり前のものとして受け取れるのは、こうした時代の挑戦が積み重なっているからだ。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは出発点として「恋する季節」。そこから「情熱の嵐」「ちぎれた愛」と進むと、スター性が一気に加速していく流れがよくわかる。さらに1979年の「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」までたどれば、西城秀樹が70年代の歌謡スターであるだけでなく、日本のポップ・エンターテインメントを巨大な祝祭に変えていった存在だったことが実感できるはずだ。