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  • 5月18日は、槇原敬之のソングライティングがJ-POPの標準語になったことを思い出す

    5月18日は、槇原敬之のソングライティングがJ-POPの標準語になったことを思い出す

    5月18日は、J-POPの中で「ふつうの言葉がそのまま歌になる瞬間」を思い出したくなる日だ。大げさな比喩に頼らず、日常の温度をそのままメロディに乗せて、多くの人の気分の置き場所を作ってきた書き手がいる。1969年5月18日生まれの槇原敬之は、その代表格として1990年代以降の日本のポップスに大きな足跡を残した。

    1969年5月18日、槇原敬之が生まれる

    槇原敬之は1969年5月18日、大阪府高槻市生まれ。1990年にシングル「NG」、アルバム『君が笑うとき君の胸が痛まないように』でデビューし、翌1991年の「どんなときも。」で一気に広く知られる存在になった。この曲は映画主題歌としても浸透し、ミリオンヒット級の代表作となる。その後も「もう恋なんてしない」「SPY」「遠く遠く」「世界に一つだけの花」など、自身の歌手活動だけでなく提供曲を通じても強い存在感を発揮した。誕生日である5月18日は、彼のキャリア全体を振り返る入り口としてちょうどいい。

    日常語をポップスの芯にしたソングライティング

    槇原敬之の重要さは、90年代J-POPの大ヒットを支えたことだけではない。彼の歌詞は、劇的な事件よりも、ためらい、後悔、励まし、言い切れない優しさのような日常の感情を、会話に近い言葉で丁寧にすくい上げるところに特徴がある。その一方で、メロディは親しみやすく、それでいて転調やコード進行には確かな工夫があり、何度聴いても平板にならない。シンガーソングライターとしての内省性と、広く共有されるポップスとしての開放感を両立させたことで、槇原の作品は「個人の歌」でありながら「みんなの歌」として機能した。そうした書き方は、以後のJ-POPにおけるひとつの標準語になったと言っていい。

    今日聴くなら

    今日はまず「どんなときも。」を聴きたい。自分を励ます言葉が押しつけにならず、ちゃんと歌として残る、そのバランス感覚がよくわかる。次に「もう恋なんてしない」を流すと、失恋の情けなさとユーモアが同居する槇原敬之らしさがはっきり見える。さらに、SMAPに提供した「世界に一つだけの花」までつなげると、個人の心情を歌ってきた書き手が、時代全体に共有されるメッセージをどう作ったのかも感じ取れるはずだ。5月18日は、槇原敬之の歌がJ-POPの言葉遣いそのものを広げたことを改めて確かめたい日である。

  • 5月17日は、Every Little Thing初期の輪郭を作った五十嵐充の仕事を聴き返したい

    5月17日は、Every Little Thing初期の輪郭を作った五十嵐充の仕事を聴き返したい

    5月17日は、Every Little Thingの初期サウンドを思い出すのにちょうどいい日だ。90年代後半のJ-POPを振り返ると、歌そのものの強さだけでなく、打ち込みと生楽器のバランス、切なさを前に押し出すコード進行、そして耳に残るサビの設計まで含めて時代の空気を作った制作者がいる。その代表例のひとりが、5月17日生まれの五十嵐充である。

    1969年5月17日、五十嵐充が生まれる

    五十嵐充は1969年5月17日、神奈川県横浜市生まれ。幼少期からエレクトーンに親しみ、のちにギターも経験しながら音楽の基礎を広げていった。1990年代前半にはエイベックス周辺で制作の経験を積み、1995年には後にEvery Little Thingのボーカルとなる持田香織の声を使ったデモ制作を担当。その流れから、1996年8月に持田香織、伊藤一朗とともにEvery Little Thingとしてシングル「Feel My Heart」でデビューする。グループではリーダー兼サウンド・プロデューサーとして、初期の大半の楽曲で作詞・作曲・編曲を担ったことが大きい。

    90年代後半J-POPの手触りを決めたプロデュース感覚

    五十嵐充の仕事が日本音楽史の中で重要なのは、Every Little Thingを単なるヒットユニットで終わらせなかった点にある。「Dear My Friend」「For the moment」「出逢った頃のように」「Time goes by」などに通じるのは、当時のエイベックスらしい打ち込みの鮮やかさと、歌謡曲的な哀感を両立させる設計だ。派手なテンポ感を持つ曲でもメロディは過剰に軽くならず、逆にバラードでは余白を残して歌を立たせる。そのバランス感覚が、TK以後のJ-POPが多様化していく局面でELTを独自の場所に押し上げた。2000年3月に本人は作曲・編曲・プロデュース業へ専念するためグループを離れるが、初期ELTの輪郭は今なお五十嵐の仕事として聴き取れる。

    今日聴くなら

    今日はまずデビュー曲「Feel My Heart」から入るのがいい。90年代後半J-POPのスピード感ときらめきが凝縮されている。次に「Time goes by」を聴くと、五十嵐充が単なる打ち込み職人ではなく、長く残るメロディを書く人だったことがはっきりわかる。さらに「出逢った頃のように」を並べれば、ポップさと切なさを同時に走らせる手腕も見えてくる。5月17日は、Every Little Thing初期の名曲群を通して、五十嵐充が90年代J-POPに刻んだ質感そのものを聴き返したい日だ。

  • 5月15日は、常田大希の越境する音楽感覚がJ-POPの景色を塗り替えたことを思い出す

    5月15日は、常田大希の越境する音楽感覚がJ-POPの景色を塗り替えたことを思い出す

    5月15日は、King Gnuとmillennium paradeの中心人物・常田大希の誕生日。近年の日本のポップミュージックを振り返ると、ジャンルの境界をまたぐこと自体がひとつの当たり前になってきたが、その流れを強い説得力で前に進めたひとりが常田大希だ。ロックバンドのダイナミズム、クラシック由来の構築性、ヒップホップ以降のビート感覚を同じ画面に置けることを、彼は作品ごとに証明してきた。

    1992年5月15日、常田大希が生まれる

    常田大希は1992年5月15日、長野県伊那市生まれ。5歳からチェロを学び、東京藝術大学音楽学部器楽科チェロ専攻に進学したのち中退した。2013年にSrv.Vinci名義で活動を始め、メンバーチェンジを経て2017年にKing Gnuへ改名。さらに2019年1月にはアルバム『Sympa』でメジャーデビューを果たし、同年にはmillennium paradeも本格始動させた。クラシックの素養を持ちながら、最終的に向かった先が“閉じた専門性”ではなく“社会と接続するポップ”だったところに、常田の面白さがある。

    J-POPの更新を体感させた存在

    King Gnuが広く浸透した理由は、単に洗練されているからではない。常田が書く楽曲は、難解さを飾りとして使わず、メロディの強さや言葉の引っかかりをきちんとポップの中心に置いている。そのうえで、バンドアンサンブルにはブラックミュージックや現代的なビート感覚、映像的なスケール感が混ざり、従来のJ-POPの文法だけでは回収しきれない響きを作ってきた。millennium paradeで見せる実験性、米津玄師「KICK BACK」やSixTONES「マスカラ」など外部仕事での存在感まで含めると、常田大希は“バンドマン”という枠だけでは足りない。2010年代後半以降の日本の音楽シーンで、越境する感覚そのものをメインストリームに押し上げた立役者のひとりと言っていい。

    今日聴くなら

    まずはKing Gnuの『Sympa』を通して聴きたい。2019年のメジャーデビュー作でありながら、すでに彼らの方法論がかなりはっきり刻まれていて、バンドの攻めた感覚と大衆性が同時に鳴っている。そのあとに「白日」や「飛行艇」、さらにmillennium parade名義の作品へ進むと、常田大希が一つの成功パターンに留まらず、音の輪郭を何度も塗り替えてきたことがわかるはずだ。5月15日は、日本のポップスがどこまで自由に混ざり合えるかを体感させた作り手として、常田大希の仕事をあらためて聴き返したい。

  • 5月12日は、奥田民生が日本のロックに持ち込んだ肩の力の抜けた強さを聴き返したい

    5月12日は、奥田民生が日本のロックに持ち込んだ肩の力の抜けた強さを聴き返したい

    5月12日は、奥田民生の誕生日。日本のロックやJ-POPを振り返ると、技巧や大げさな演出で押し切るのではなく、肩の力が抜けたまま強く響く表現がある。UNICORNでのバンドブーム、ソロでの独自の歌世界、さらにPUFFYのプロデュースまで、奥田民生の仕事は“気負わないのに残る”日本語ポップスの作法をかなり広い範囲に残してきた。

    1965年5月12日、奥田民生が生まれる

    奥田民生は1965年5月12日、広島県広島市生まれ。1987年にUNICORNのメンバーとしてメジャーデビューし、1989年の「大迷惑」をきっかけにバンドは一気にブレイクした。「働く男」「雪が降る町」「すばらしい日々」など、ユーモアと哀愁が同居する楽曲群は、当時のバンドブームの中でも独特の存在感を放っていた。1993年のバンド解散後は、1994年に「愛のために」でソロ活動を開始。以後、「イージュー★ライダー」「さすらい」などを発表し、バンド時代とは別の角度から、日本語ロックの自由さを更新していった。

    肩の力を抜いたまま届く、という発明

    奥田民生の面白さは、力んでいないように見えるのに、曲としては驚くほど芯が強いところにある。UNICORNでは脱力した笑いと鋭い観察眼を同居させ、ソロでは生活の手触りを残したまま、ロードムービーのように景色が流れる歌を書いてきた。さらに1996年にはPUFFYをプロデュースし、「アジアの純真」「これが私の生きる道」などで、90年代J-POPの空気を大きく変える仕事も成し遂げている。ロックとポップ、作り込みと抜け感、そのあいだを軽やかに往復できること自体が、奥田民生の日本音楽史的な価値だと言っていい。

    今日聴くなら

    まずはUNICORNの「すばらしい日々」。明るさだけではない余韻の深さに、彼のメロディメーカーとしての強さがよく出ている。そこからソロの「イージュー★ライダー」や「さすらい」を続けて聴くと、移動感や生活感をそのまま歌にしてしまう奥田民生らしさが見えてくるはずだ。さらにPUFFYの初期曲まで広げれば、歌う人が変わってもなお残る“民生印”の輪郭も楽しめる。5月12日は、日本のポップスを少しだけ自由にした人の仕事をまとめて聴き返したい。

  • 5月10日は、Mr.Childrenの原点『EVERYTHING』からJ-POPの大きな物語が始まった日

    5月10日は、Mr.Childrenの原点『EVERYTHING』からJ-POPの大きな物語が始まった日

    5月10日は、Mr.Childrenがミニアルバム『EVERYTHING』を世に送り出した日です。1990年代以降のJ-POPを語るうえで欠かせないバンドの出発点をたどると、後年の巨大な成功だけでは見えない初期衝動の輪郭が浮かび上がります。

    Mr.Childrenのメジャー初期を告げた『EVERYTHING』

    TOY’S FACTORYのディスコグラフィーによれば、『EVERYTHING』の発売日は1992年5月10日。収録曲には「君がいた夏」「ロード・アイ・ミス・ユー」「Mr.Shining Moon」などが並び、のちに国民的バンドへ成長していくMr.Childrenの原型が、この時点ですでに刻まれていました。まだ荒削りながら、桜井和寿のメロディ感覚と、バンドとしての瑞々しい一体感が同居しているのがこの作品の面白さです。大ヒット期の洗練とは違う、青年バンドらしいまっすぐな熱量が詰まっています。

    のちのJ-POPを変える感性は、すでにここにあった

    『EVERYTHING』は、売上記録やスタジアム規模のライブより前のMr.Childrenを知るための重要な一枚です。後年の代表曲で広く共有されることになる、日常の揺らぎをすくい上げる言葉選び、叙情とポップネスを両立させる曲作り、その萌芽がすでに感じられます。90年代J-POPが「大衆性」と「個人的な感情表現」を高いレベルで両立していく流れのなかで、Mr.Childrenが果たした役割は非常に大きく、その長い物語の最初のページとして5月10日の『EVERYTHING』は見逃せません。

    今日聴くなら

    まずは「君がいた夏」で、初期Mr.Children特有の透明感を味わいたいところです。さらにアルバム全体を通して聴くと、後年の名曲群へつながるメロディの癖やバンドの呼吸が見えてきます。完成されたベスト盤ではなく、あえて『EVERYTHING』から入ることで、Mr.Childrenという存在がどう始まり、なぜ長く愛されるのかを実感できるはずです。

  • 5月9日は、平原綾香の「Jupiter」がJ-POPに持ち込んだ祈りのスケールを思い出したい

    5月9日は、平原綾香の「Jupiter」がJ-POPに持ち込んだ祈りのスケールを思い出したい

    5月9日は、平原綾香の誕生日。2000年代のJ-POPを振り返ると、クラシック由来の大きな旋律をここまで自然に“自分の歌”として定着させたデビューはそう多くない。代表曲「Jupiter」は大仰なだけのバラードではなく、祈りのようなスケール感と日常の感情を同じ地平に置いた、日本のポップス史でもかなり特別な一曲だった。

    1984年5月9日、平原綾香が生まれる

    平原綾香は1984年5月9日、東京都生まれ。サックス奏者の平原まことを父に持ち、自身も学生時代からサックスを学んだ。音楽大学でジャズを学びながら表現の基礎を磨き、2003年12月17日にシングル「Jupiter」でデビューする。ホルストの組曲「惑星」から「木星」の旋律を下敷きにしたこの曲は、クラシックの名旋律に日本語のポップソングとしての生命を与えた点で非常にユニークだった。歌唱力だけでなく、旋律の大きさに飲み込まれず、あくまで自分の言葉として届けるスケール感が、デビュー時から際立っていた。

    「Jupiter」が2000年代J-POPに残したもの

    「Jupiter」はテレビドラマ挿入歌としても広く届き、のちにミリオン級の広がりを見せた。大きな編成やクラシカルなイメージを持つ楽曲は、ともすると距離のある“名曲風”になりがちだが、平原綾香の歌はそこに体温を残した。だからこそ、壮大なのに説教くさくなく、励ましなのに押しつけがましくない。2000年代以降のJ-POPで、スケールの大きいバラードやクロスオーバー作品が受け入れられる土壌を考えると、「Jupiter」が果たした役割はかなり大きい。クラシック、ポップス、歌謡性の境界をなめらかにつないだ功績は、今あらためて聴いても新鮮だ。

    今日聴くなら

    まずはもちろん「Jupiter」。何度も耳にした曲でも、旋律の運びと息遣いを意識して聴くと、単なるヒット曲では終わらない理由が見えてくる。そこからデビューアルバム『ODYSSEY』へ進めば、壮大さだけではない繊細な表現の幅も感じられるはずだ。5月9日は、平原綾香を“あの名曲の人”としてではなく、2000年代J-POPに祈りのスケールを持ち込んだシンガーとして聴き返したい。

  • 5月8日は、中原めいこが80年代ポップスに残した南国の魔法を聴き返したい

    5月8日は、中原めいこが80年代ポップスに残した南国の魔法を聴き返したい

    5月8日は、中原めいこの誕生日。1980年代の日本ポップスを振り返ると、『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』の一撃で名前を刻んだ人、というだけでは少し足りない。ラテン、ディスコ、AOR、歌謡曲の大衆性を自然につなぎ、あとから振り返るとJ-POPの器用さを先回りしていた書き手として聴き直したくなる。

    1959年5月8日、中原めいこが生まれる

    中原めいこは1959年5月8日、千葉県四街道市に生まれた。中学生の頃から作曲を始め、ポップス・スクールで音楽を学び、バックコーラスなどの経験も積んだのち、1982年に『今夜だけDANCE・DANCE・DANCE』でデビュー。同年には1stアルバム『COCONUTS HOUSE』も発表している。80年代前半の女性シンガーソングライターが並ぶ時代にあって、自作曲を軸にしながら、最初から都会的でリズム感の強いポップスを鳴らしていたのが中原めいこの個性だった。

    『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』が示した先進性

    中原めいこの代表曲としてまず挙がるのは、1984年4月5日発売の6枚目のシングル『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』だ。カネボウの夏のキャンペーンソングとして広く届いたこの曲は、耳に残るフレーズの強さだけでなく、南国イメージを借りながら歌謡曲とダンス・ポップを接続するセンスが抜群だった。その後も『ロ・ロ・ロ・ロシアン・ルーレット』や『鏡の中のアクトレス』などで、ファンク、シンセポップ、アニメ主題歌的な華やかさまで軽やかに取り込み、80年代J-POPの雑食性を先取りしていたと言える。

    今日聴くなら

    まずはやはり『君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。』から入りたい。言葉のキャッチーさに耳を奪われるが、実はアレンジやリズムの設計がかなり洗練されている。続けてアルバム『COCONUTS HOUSE』を聴けば、デビュー時点での完成度の高さがわかるし、『鏡の中のアクトレス』まで進めば後年のシティポップ再評価に接続される理由も見えてくる。5月8日は、中原めいこを“夏の一発”ではなく、80年代日本ポップスの発明家として聴き返したい日だ。

  • 4月30日は、福山雅治「Heart/you」で音楽活動を再開した日

    4月30日は、福山雅治「Heart/you」で音楽活動を再開した日

    4月30日は、福山雅治がシングル「Heart/you」をリリースし、音楽活動を再開した日。1995年10月の「Message/今 このひとときが 遠い夢のように」以降、俳優としての印象も強くなっていた時期だったが、この一枚で“歌う福山雅治”がふたたびはっきり前景化した。90年代後半J-POPのまんなかで、福山雅治がシンガーソングライターとして次のフェーズへ入った節目として見たい日だ。

    1998年4月30日、「Heart/you」で約2年半ぶりに音楽活動を再開

    1998年4月30日、福山雅治はシングル「Heart/you」を発売し、1995年秋以来およそ2年半ぶりとなる音楽活動の再開を果たした。この時期の福山は、ドラマ出演などを通じて俳優としての存在感も大きくなっていたが、だからこそこの再始動には意味があった。「Heart」はスケールの大きいバラードとして、「you」はより近い距離で感情を伝える楽曲として機能し、一枚の中に福山雅治のメロディメーカーとしての強さと、声の体温の両方が入っていた。4月30日は、福山雅治が単なる人気者ではなく、J-POPの主役級ソングライターとして次の時代へ戻ってきた日だった。

    俳優としての注目を、音楽の説得力へきちんとつなげた復帰作

    90年代後半のJ-POPは、ミリオンヒットが連発される一方で、アーティストの顔つきや物語性も強く求められていた。福山雅治はすでに高い知名度を持っていたが、「Heart/you」の重要さは、その人気を音楽の強度へ無理なく接続したことにある。復帰作だからといって過剰な演出に頼るのではなく、楽曲そのものの輪郭と歌声の説得力で戻ってきたことで、シンガーとしての福山雅治の信頼がより強くなった。このあと「Gang★」「HEAVEN」と続いていく流れを考えても、4月30日の再始動は、後期90年代の福山雅治像を決定づける起点としてかなり大きい。

    今日聴くなら

    今日はまず「Heart」を聴いて、90年代J-POPらしい大きなメロディの運びと、福山雅治の声が持つ伸びやかな強さを味わいたい。そのあとに「you」へ進むと、同じシングルの中で見せる表情の違いがよくわかるはずだ。さらに90年代後半のシングル群へつなげていけば、福山雅治が“俳優もやる人気者”ではなく、時代の空気をきちんと歌にできる人だったことが、改めて立体的に見えてくる。

  • 4月28日は、宇多田ヒカル「First Love」が時代の失恋ソングになった日

    4月28日は、宇多田ヒカル「First Love」が時代の失恋ソングになった日

    4月28日は、宇多田ヒカルのシングル「First Love」が発売された日。アルバム『First Love』の熱狂が日本中に広がっていた1999年、この曲はその勢いを決定づける一打になった。大げさに泣き叫ぶのではなく、静かな言葉で喪失感を描くこのバラードは、J-POPの失恋ソングの基準そのものを塗り替えた一曲として、いまも特別な輝きを放っている。

    1999年4月28日、「First Love」がシングルとして発売された

    「First Love」は、宇多田ヒカルの1stアルバム『First Love』からシングルカットされ、1999年4月28日に発売された。同曲はTBS系ドラマ『魔女の条件』の主題歌として広く浸透し、当時まだ10代だった宇多田の表現力を決定的に印象づけた。アルバム版ですでに多くの人の耳に届いていた楽曲が、シングルとしてあらためて街に広がったことで、この曲は単なる収録曲ではなく、その時代の空気を象徴するバラードになった。4月28日は、平成J-POPの感情表現がひとつ更新された日として記憶しておきたい。

    シンプルな言葉で届く“喪失のリアル”がJ-POPを変えた

    「最後のキスはタバコの flavor がした」という冒頭の一節は、説明しすぎずに情景と感情を一気に立ち上げる名フレーズとして知られている。R&Bの質感を持ちながら、日本語の響きでここまで自然に切なさを伝えられるのか――そんな驚きが、この曲にはあった。90年代後半のJ-POPは強いメロディとドラマ性にあふれていたが、「First Love」はそこに繊細さと余白を持ち込み、歌い上げるだけではない新しいバラード像を示した。その後の女性シンガーソングライターやR&B系ポップスにも、この曲が開いた道の大きさは見逃せない。

    今日聴くなら

    今日はまず、オリジナルの「First Love」をまっすぐ聴きたい。メロディの美しさはもちろん、言葉と息づかいの置き方がどれだけ緻密かにあらためて気づかされるはずだ。続けてアルバム『First Love』を通して聴けば、「Automatic」や「Movin’ on without you」とは異なる静けさが、この作品の奥行きを支えていることもよくわかる。4月28日は、宇多田ヒカルが“永く残る歌”をポップの中心に置いた日として味わいたい。

  • 4月16日は、BONNIE PINKが英語詞ポップスの景色を塗り替えた感性をたどる

    4月16日は、BONNIE PINKが英語詞ポップスの景色を塗り替えた感性をたどる

    4月16日は、BONNIE PINKの誕生日。90年代半ば以降のJ-POPが日本語詞の強さを更新していった時代に、彼女は英語と日本語を自然に行き来しながら、都会的でありつつ体温のあるポップスを描いた。海外志向を“背伸び”ではなく自分の言葉として成立させた、その感性を振り返りたい。

    4月16日生まれ、BONNIE PINKが1995年に切り開いた入口

    BONNIE PINKは1973年4月16日生まれ、京都市出身のシンガーソングライター。Wikipediaによれば、大学の文化祭をきっかけに音楽活動が本格化し、1995年9月21日に自身の作詞・作曲によるアルバム『Blue Jam』でデビューした。同作からのシングル「オレンジ」で注目を集め、その後はスウェディッシュ・ポップの名プロデューサー、トーレ・ヨハンソンとも組みながら独自の音像を磨いていく。英語に親しんできた背景をそのまま表現へつなげ、日本のマーケットに合わせて無理に均すのではなく、自分の耳で育てたポップスの感覚を前面に出した点が、当時からかなり新鮮だった。

    英語詞ポップスを日本の主流へ近づけた意義

    彼女の存在が特に大きいのは、英語詞や洋楽的なリズム感を“通好み”に閉じ込めず、日本のポップスとして開いたことにある。Wikipediaでも、1997年の「Heaven’s Kitchen」が30万枚以上を売り上げ、さらに2006年の「A Perfect Sky」が20万枚を超えるヒットになったことが記されている。歌詞が英語だと売れにくいという日本の業界の常識を揺らし、しかもその魅力は単なる語感の良さだけではなかった。柔らかい声、少し影のあるメロディ、洗練されているのに冷たくなりすぎないアレンジ。そのバランス感覚によって、BONNIE PINKはJ-POPと海外ポップスの距離をぐっと縮めた。女性シンガーソングライター像を更新した存在として語られる理由はそこにある。

    今日聴くなら

    今日聴くなら、まずは代表曲の「Heaven’s Kitchen」。BONNIE PINKの英語感覚とメロディのしなやかさがよくわかる。そのうえで2006年の「A Perfect Sky」へ進むと、彼女のポップネスがより大きなリスナーへ届いた瞬間が見えてくる。デビュー作『Blue Jam』までさかのぼれば、後年の洗練につながる芯の強さも感じられるはずだ。4月16日は、BONNIE PINKが日本のポップスに持ち込んだ“自然体の越境感覚”を聴き直すのにちょうどいい日だ。